「バーベンハイマー」:原爆をめぐる記憶のポリティクス

原爆投下は必要悪necessary evil であったとする言説を解体すべきという「抗い」の必要性は認識する一方、大日本帝国によるアジア地域の統治は欧米列強の帝国主義から解放するための必要善 necessary goodだとする言説を「守る」傾向も強い世論であるとも思わされる。

例えば、ここ数日の間で盛んに議論の対象となっているバーベンハイマーのトレンドは、そのような必要悪の解体と、必要善の維持の間を揺れ動く、不安定な言説のポリティクスを体現している。即ち、米国によって全体的に傷つけられた「われわれ」(日本人)が、(歴史的には加害者だったのにもかかわらず)潜在的に犠牲者ナショナリズムで慰められているという、帝国主義の遺産としての「ねじれ構造」は、今日でも機能している。

管見によれば、原爆の記憶は厳密には日本固有のものとは言えないと考える。むしろ、当時の「大日本帝国」に帰属することを考慮すれば、原爆の記憶は多民族的な記憶、超国家的な集合的記憶なのではないだろうか。したがって、それを表象=代表する主体は単数的、局所的なものとして象られないものではないかとも考える。すなわち、その記憶の「在処」は局在しうるものでありながらも、その経験を共有しうる主体は、当時の多民族的な社会構成を踏まえると複数的なものではないだろうか。

もし、日本がかつて宗主国だった立場から見た時の自国史観への無知を積極的に美化して、それを更に戦略的に利用することでアメリカに対して被爆者ポリティクスを堂々と行うならば、旧植民地諸国への忘却のポリティクスを通じた立派な加害を続けることになるだろう。

一般的に、単なる過去の惨事としてではなく、象徴的な悪として記憶されている出来事は、時の流れと共に無意識に再生産される資本となる。つまり、社会的記憶において、それを誰が表象=代表するのかという問いは、極めて重要な意義を持つ。一方はそれを生産-消費する従順な身体を持つ主体として、他方はそれを破壊するラッダイト運動に参加する主体として、人間は歴史に由来する振り付けを刷り込まれる。

また、そのような「我々/彼等」に基づく双極的なナショナルの弁証法が緊張感を持って高まる日は、カレンダーで確かめることができる。あるいは、メディアが構築する社会的時間でも確かめられる。後者に関しては、「バーベンハイマー」のアジェンダがその卑近な例となっている。このようにして、表象の流通をめぐる「メーデー」は、時間の循環の中のものでありながら、トラウマ的な思い返しによる作用でもあるのではないだろうか。