規律と自由:「個」と「全体」の抗争

僕の思弁的世界を、一義的な「グローバル」や「ローカル」で形容することができない。それらはある意味「固形化された主体」の根源だから。いうなれば、それはもっと不定形で「液状化した主体」が常に浮揚する場である。

だからか、「和」の共同体、あるいは「集団の固有性」への同化を要求される(とりわけ義務教育過程における)学校時代が苦痛だった。それは単に群れて動くのが嫌、とかではなく、その状況においては人間の「個」と「全体」の境界線が容赦なく抹消されるからだった。そのような「個」と「全体」の絶対的な同一性をもとに、社会はその動力となる規律空間を生成する。

つくづく、人間は規範性を渇求するものなのだなと思う。だが、そのような社会空間を創り上げておきながら、人はまた己の欲望そのものに対する自由な裁可を司る権限としての「自決権」も同様に潜在的な形で渇求している。ただ、この規律と自由は単なる二項対立では説明しきれないと思う。なぜなら、規律も自由も、社会という場に存在するすべての事象と事物を総動員する事によって、鬩ぎ合うからだ。

人間社会がそのような「カオスの淵に」常に立たされている多様体だという認識のもと、「個」の自由を抑圧しようとする権威的な規律と、そのような「全体」の規律を出し抜くべくその生存戦略を遂行する反動的な自由が葛藤しあう構図を理解する必要があると思われる。