ホームレス・マインド

 「地元がない」。この言葉を僕が言うとき、大概3つほど意味が込められている。

 一つには、本来「地元」になるはずだった場所から離れた場所で人生の大半を過ごしたこと。いわば、「ホーム」の概念を(リクール的な意味で)自分自身を疎隔しながら理解するしかない。だから、自分にとってアイデンティティーは、常にどの集団からも疎外された形で、形成しなければならない。

 そして次に、「地元」は一貫して「虚数的に」しか構成されないものであるということ。もし、母国、母集団があってそこに所属意識もある場合を「自然数的」だとしよう。ところが、僕のように人間としての主体が過剰に液状化しているときには、どれだけ「母集団」とか「所属」を探して当てはめて掛け合わても、何も残らない。元々自分にとって存在したはずのないもので、自分とは何者なのか、という問に答えた気になっているだけだからだ。

 故に、「たられば」的な想像ばかりを馳せるだけの、あたかもおとぎ話のような世界の事象として認識するしかない。これが最後の意味である。カッシーラーがいうような神話思考の要素と、「地元」という概念は、僕にとってかなり親和性のあるものだ。つまり、人間の理性を超越した次元で成立した観念的なものが、一個人の言動を支配する言説に落とし込められる。だから「地元がある」という感覚は、僕にとって極めて神秘的なものである。

 総じて、これら3つの意味に共通するのは、どれも現実味の強い、想像力の世界のものだということである。想像力という言葉は実に語弊がある。むしろ、フランス語で言うところのイマジネールがそれに最も意味が近い。つまり、イマジネールは、単なる虚構を生み出す力でも、想像力でもない。むしろ、人間社会、および人間の思弁的諸相を紡ぎ続ける潜在的な生産力である。「地元」という感覚もその中に入ると考える。