「勉強」:「キモさ」を会得する技術

勉強すると「キモい」人間になれる、というのは確か千葉雅也の言葉だったはず。というのも、実際院生として色々学び続ける中で、僕という人が「キモく」変容していることを体感するからだ。

おそらく、俗にいう「ガリ勉」と違う意味があるのだろう。以下は、僕個人の勝手な解釈だが、このようなことを思う。まず、勉強を続ければ、その人の視野は横に広がる。それだけではない。縦にも引き延ばされていくだろう。つまり、四方向に向かって、その人の知性は、たくさんのことをインプットして、それと同じかそれ以上のアウトプットを放出する。

ところが、そのような内在的な自己の拡がりは、第三者的な視点からすれば、大層不気味なものである。なぜなら、ほとんどの人がスルーして、目配せもしないことに、そのような知識人は眼が開いているからだ。要するに、常人に見えない世界を、その人は見えるというのだから、それは大層気色悪いことだろう。

とは言え、そのような「キモさ」の会得は、自分自身に対して、肯定的な生成変化をもたらすのも事実だろう。それは、自分という人間の本来的、あるいは根源的な姿への気づきをもたらす。そして、同時に、自分の外に拡がる世界からのあらゆる要請の声に対して、反応できるだけの準備整えるだけの存在了解を与える。

このようにして、僕自身もまた、知的な感受性は以前より潤沢なものとなったと思う。自分という人間の在り方の豊かさに気づく契機づけとして、「キモくなる」ための勉強は続けていきたい。