政治を認識する

近年の世相において、客観的学問の対象としての「政治」を想起することは難しくなっている。根源的には、政治とは行為の力学ではなく、認識の生態学によって説明が始まる事物である。

故に、私の関心を惹き寄せるのは、政治的な事象を通じて、日常世界に対する個人の認識の象られ方を知り、それに対して考える営みである。よって、私にとって、政治的なものとは、人間の認識にまつわる凡ゆる事象を精査するための一つのルーペである。

なので、私にとっての「当事者的な」政治の関心は、むしろ「ない」。ややこしいのだが、確かに私は、「日本」という政治的共同体の中の当事者ではある。しかし、「政治的なもの」を探究する目的は、政治的自己を陶冶することにはなく、疎隔された世界としての「政治」を考察することにある。

繰り返しとなるが、私は政治を行為する手段として一辺倒に考えることが妥当だとは思わない。なぜなら、その行為を裏付ける正当性や実効性は、常に説明を要求されるものだからだ。そうなると、まず政治的なものの説明は、認識論的に始めなければならない。

政治的知識、政治的理解、政治的思考…といったものは、どれも、個人の主体の管理下に置かれたままでは、解明することができない。これらの外部性となる存在の諸相も、同時に考慮しなければならないのだ。だから、政治的行為は、常に政治的認識を伴うことを忘れてはいけない。