今後について

 (既知の方もいるかと思いますが)アカデミアにおける研究活動は、修士号取得をもって一旦止めることに決めました。理由は諸々ありますが、ここでは説明を割愛することにします。その後、仕事を見つけて働きながらになると思いますが、その傍らで「〈政治的なもの〉としての祝祭」というテーマについて探求できればと考えております。余暇の時間で深められたらと思います。簡単ながら暫時的な要点を。

【フォーカス】

1. 自由民主主義によって構成された社会における市民意識が、政治的な能動性・行為者性によって規定されているならば、なぜそれは排外主義的な言説やそのような政治団体の言動を許容したのだろうか。
2. またそのような普遍性に根ざした思想的基盤から乖離した、よりローカルな範囲における共通善を追求する市民意識が想起する「世界」とは何か。すなわち、そのような意識の集合的な主体となる「わたし(たち)」は、どのような「世界」において調和を求めているのだろうか。

【背景】

リベラリズムを擁護してきた国家・社会におけるポピュリズム、および極右政党の台頭。排外主義的な言説の流布によって、民主的な社会の構成における包摂の機能が不全状態とされている。
・しかし、そのような市民意識は現実と虚構の融即状況から構成されているものではないだろうか。すなわち、共同体の身内となる「友」とそのヨソにあたる「敵」のどちらも実在する〈かのように〉その構成員が認識している点を検証する必要があるのではないだろうか。



 このようなテーマの鍵言葉となるものについていくつかコメントも付記します。まず「祝祭」という語は、ヨゼフ・ピーパーに因んでいます。つまり、「自己が世界と調律する場」と一旦定義しています。また、この概念については『人間と聖なるもの』をはじめとしたカイヨワの著作も参照点としながら逐次検討していく予定です。

 そして〈政治的なもの〉について。基本的には、シュミット的な政治神学論を踏襲しながらも、一旦は人間が他者、およびその集合的な総体としての共同体に参加するための条件として想起することにしたいと思います。また、そこにおける「人間」についても、カッシーラーに倣って「シンボルを操る動物」という了解のもと絞り込みたいと考えています。

 総じて、擬制(フィクション)の論点を追究することによって、「あれかこれか」という二元性に基づいた従来の了解とは異なった共同体論、そして民主主義社会における社会的包摂論の可能性を拓けると考えています。グロテスクなもの、そしてホラーとしての「あいつら」を現前にして、「わたしたち」の認識・感情は象られています。また、そのような情念が集合的に生成されることによって形成される世界のあり方はフィクティブな構成をしているものだと考えています。

 長くなりましたが、このような方向で今後ともゆっくりながら歩み続けられればと思います。