君主の身体、国民の身体

「君主の身体を<一>としたとき、民主主義を”君主”の身体の<多>な姿≒「国民の身体」として考えられるならば、君主制は単なる<象徴的>なものと言えるのか。」

もし、この問いが示唆するものを、「仮想現実的な君主制」(cf. Santner, 2011)としての民主主義だとすれば、「君主の身体」という政治的なメタファーは、国民の身体の実体を体現しているといえよう。

ここでカントーロヴィチ的な神学論、すなわち王の身体は自然的な有限性と政治的な永続性を有するとする議論は、国民にも応用が効く。だが、後者で気をつけなければならないのは、国民がもつのは政治的身体ではなく、国家的身体(Body National)だという点である。国王の身体は、ある政治的共同体の統一された姿を体現する、一つの結晶であった。だが、国民の身体は、国家によって設計された同質性を体現する多数の原子なのである。

また、民主主義の時代を生きているという現代の我々の世界観が、君主制、及び神権的な王の特権の存在は過去の遺物として捨象していることは、懸念すべきことだと述べなければならない。なぜなら、そのように短絡的で前進的な価値観は、現在の政体が過去の政体を延長したという系譜的な関係性を一度に隠蔽してしまうからである。

よって、社会問題的に、君主制を単に「残すか/廃するか」を論ずるだけでは不十分である。むしろ、その根底を再検証しなければならない。つまり、我々が公平無私なシステムだと謳う民主主義そのものが、君主制を擬態化したものではないか、と問い質さなければならない。

日本の天皇・皇室や、英国王室は、今や一国の平和と安寧な秩序の象徴として認識されている。しかし、まず国民である我々一人もまた、象徴的な作用をもたらしうる存在なのである。かつての君主が、国家の頭だったとすれば、国民としての我々はその有機的な身体に侵入してくる外的なウイルスに抗う白血球のようなものだ。

民主主義というものを、改めて政治的な形態学(political morphology)、あるいは、変態(metamorphosis)するものの生物学として、基礎づけ直す必要がある。なぜなら、それによって民主主義に対する我々の認識のあり方、すなわちそれを自明的とする常識に象られた日常世界を疎隔し、その客体化された「世界」と我々の関係性が目に見えるようのなるからである。