生権力論における基本的了解:フーコーとアガンベンの対比を通して

(1)   生権力とは何か

 生権力とはなにか。日常的にも、学術的にも特殊なこの言葉は、ミシェル・フーコーによるものである。フーコーによると、生権力とは、人の命を「生きさせるか死の中へ廃棄するという権力」(フーコー、1986:175)である。一概に言うと、この殺傷与奪の権利を享受するのは、近代以前であれば君主、近代以降であれば国家である。また、この生権力は、二つの理論的条件を踏まえることによって、機能するようになる。まず、生権力は、人間の身体の解剖‐政治学(アナトモ・ポリチック)が成立していることを要求する。すなわち、「身体の調教、身体の適性の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの並行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み」(フーコー、1986:176)のすべてを保証する、規律を特徴づけている権力の手続きを経過しなければならない。また、同時に人口の生‐政治学(ビオ・ポリチック)が成立していることも要求する。これは、「種である身体、生物の力学に貫かれ、生物学的プロセスの支えとなる身体というものに中心を据え」、「繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件」である(フーコー、1986:176)。しかし、このようなフーコーによる二重構造的な生権力論は、フーコーの後の世代のイタリアの哲学者であるジョルジョ・アガンベンによって更に深く吟味され、そしてフーコーによる当初の仮説的な姿とは多くの点において異なるような主張がなされるようになった。以下、フーコーアガンベンの両者による生権力論の相違点について検討していく。

(2)   生権力に対する、フーコーアガンベンの見解の違い

 まず、フーコーによる元の生権力論をより詳しく見ていこう。フーコーによれば、生権力が作用する場所とは「力と生命が交差するもの」であり、同時に双方の各自の次元において、そのあり方自体の再定義を要請する。しかし、前述したように『性の歴史』においてその議論の立場としては、仮説的なものである。また、フーコーによる生権力論の仮説は、次の問いを追求することが要求される、すなわち、きわめて抽象的な概念である権力と生命の両者が、いかにして互いの様相を定義するのか、および、どのような力が生命に内包されていくのかを問わなければならない。したがって、生権力の仮説における定義の過程、およびその作用の諸相に対する我々自身の理解も同様に再定義も要請される。すなわち、そのような生政治的探究において中枢的なテーゼとなるのは、主体・自己の生成技術である。それに対して、アガンベンにとっての生権力論とは、政治権力が生命に対して作用する構造に対して提示されるセオリーである。またアガンベンは、生権力を剥き出しの生 (bare life) に対して働く主権的な力として広く定義している。そして、それに基づく形で人間的なもの(the human)を永続的に定義・再定義を繰り返す必要があるとも主張する。

 以上の内容を踏まえると、主体の観点から生政治の仮説を立てたフーコーの立場と、権力の観点から見たときの政治的技術と自己の技術の接点を見出すアガンベンの間に、生権力論を巡る相違点が確認することができる。また言い換えれば、アガンベンは、必ずしもフーコーの未完のプロジェクトを完遂した「後継者」ではないとも言える。むしろ、アガンベンの関心は、現代社会においても誘発されうる政治的な謎(enigma)、すなわちかつてナチズムの台頭によって代表されるような、全体的な政治的プロジェクトに対して生権力論がどのように応答しうるのかに置かれているようである。

 ここで改めて、フーコーによる(仮説的ながらも)理論的に整理された生権力論の基本的な了解に立ち戻ってみよう。原則的に、フーコーが措定する生権力論は、以下の簡易的な命題に凝縮させることが可能である。すなわち、もし規律権力が人間の生命を個体化する作用ならば、生権力はそれを群集化する作用をもたらすのである。したがって、生権力は「人口」を標的としていることがうかがえる。また、生権力は科学的なものと政治的なものが交差する問題点として、つまり政治的合理性に基づいて統御されるべき対象として「人口」という統計学的現象が発生することを要求していることもうかがえる。その背景として、18世紀以降にヨーロッパ社会で人口が急増したこと、その流れに対処できるだけの規律権力の範囲が限度に達したことが考えられる。そのような緊急事態に呼応するべく、それより幅広い、規範化する権力が要請されることになった。よって、19世紀末以降においては国家主権と相補的に作用するという前提で、生権力は、その全体的な権力による統治機構の維持と強化に寄与することになった。

(3)生権力のパラドックス

 前節の終わりにて、著者は国家主権と生権力は相補的に機能し合うという、フーコー的な観点からすれば一見矛盾とも受け取れるような言及をした。つまり、もし権力が生かす権力ならば、従来の主権国家パラダイムにおける「殺すための力」としての主権といかに併存しうるのか、という疑問にはまだ答えていない状態である。簡潔に言うと、そのような矛盾への指摘に対する適切な応答を提示しているのは、アガンベンだと言えよう。冒頭に述べた通り、アガンベンはナチズムによる人種差別的なイデオロギーによって正当化された、ホローコストをもとに生政治的な分析を試みることに関心がある。その分析によると、人種差別は、その共同体内において最も支配的な立場にある「生」を享受するものによって、それ以外の「生」が「生きるに値する生命」/「生きるに値しない生命」のいずれかに区分されることを可能にする政治神学的なフレームワークである。

 より具体的な姿としては、以下の流れのようになる。まず、ナチズムはその全体主義的な性格からして、民主主義に内在するアポリアを露呈することができる。まず、民主主義の制度内において、主権はネイション(という政治秩序)に命を組み込む。その架空の団結によって、生命は主権的主体となる。ところが、人民の生活と生命に関わる権利と身体的な自由は、主権的拘束力に埋め込まれている限りにおいて保証される。すなわち、ベンヤミンが「被抑圧者の伝統」として呼ぶような主権の架空性の中に、民主主義に内在するアポリアが確認されるのだ。そして、そのアポリアが露呈するためには、「生の政治化」の二重的なプロセスを経由する必要がある。まず、国家権力が、人命に関して直接的な決断、すなわち生存に適するか否かを決める判断を下す。そして、(当時で言えば優生学などに由来する)生物学的事実が、政治的な対象となり、そのような政治が警察(的な権力)と関連付けられる。よって、全体主義は人命に直接作用してくる生政治的な政治機構として成立する。そしてアーレントの分析においても、ユダヤ人の人権の軽視から、ナチス・ドイツがそのような「彼ら」を材料にした剥き出しの生の産出とその殲滅の過程に至ったことが論じられている。したがって、ユダヤ人の虐殺は、決して非合理的な感情の帰結ではなく、(動物化する論理に則った上での)法的な手続き上の帰結である。ゆえに、ナチス反ユダヤ主義は、殲滅の側面だけでなく、剥き出しの生を「生み出した」(=作り出した)という側面も斟酌した上で分析される必要があると考えられる。

 また、そのような分析の起点は、国家の始源的な構造と、その範囲を定める境界線の形成のされ方に置かれたものである。その了解に基づくと、国家主権は、例外の論理に基づいて機能する。また、それが作用する対象は常に人間の生命であり、その自然的身体を素材にした生政治的身体を産出する。国家主権は、そのような姿をした人間たちの眼の前に現出する形で、その存在を強調する。ところで、このテーゼを提示するに当たって、アガンベンの関心は、正当性やその構成のあり方への疑問にはない。むしろ、法治的主体が生の形式(form of life)から引き離すものである剥き出しの生(bare life)に焦点が置かれている。また、そのような生政治的パラダイム内において、主権(者)は逆説的な仕方で構成されている。つまり、主権は自らの外(の世界、存在者=<他者>)はないと宣言しながらも、その外部から、自らを確立させる。また、それによって司法的な秩序も確立させる。その一方で、主権は例外的な状況に応じた決断も通じて、自己を確立させる。このような主権の「例外」と「決断」による両義的な構成は、カール・シュミットにより提唱された例外状態の概念から、大部分の着想を得ている側面がある。先述のナチズム分析に立ち戻って考えても、同様なことを導き出すことは可能だ。つまり、アガンベンから見れば、生権力と殺戮は互いに離しあえない。なぜなら、剥き出しの生を産み出すことは、死を産み出す過程でもあったし、ユダヤ人の強制収容所は、そのような意味で殺戮収容所(extermination camp)でもあったからだ。また、そのような収容所は、現代の政治空間の母体として考えられるが、歴史的現実には落とし込めない。なぜなら、収容所というのは、過去の負の遺産というより、むしろ多様にわかれる状況において共通する規範と生命の無差別化を示唆する「装置」(machine)であるからだ。したがって、例外状態は半永久的に続く法令である。

(結語)権力への抵抗

 生権力は、権力の系譜学的な分析の帰結として、二つの全く異なった公理を提示する。まず、フーコーは局在化された定義によって生権力論を展開したのに対し、アガンベンはむしろそれを押し広げる形でその分析を行った。また、アガンベンが提示した剥き出しの生の概念が、政治的なものの概念の再構成を図る上で妥当なものであるとしても、アガンベン自身が言うように、その実態は非常に曖昧で不確実なものである。また、この両者の見解の違いは、生の営みの中に根ざしているもの、つまり、権力技術による従属化に抗う過程を命題とした営みとしての政治的抵抗のあり方に対しても相違点を提示する。まず、フーコーは権力による分割・搾取(prélèvement)を可能にする操作に抗うこと、つまり主権的権力による禁止の拡散に抗うことで可能的な(潜在的な)生(life of possibility = puissance)に実践的な生の様式を持たせることにそのエートスがあるとする。それに対してアガンベンは、国家権力から解き放たれると同時に体験する不確実性(アガンベンが、 ‘whatever singularity’ [1993]と呼ぶもの)によって、生きるに適するか・適さないかの二元論的な価値判断からも解放していくような散発性に論点をおいているように思われる。いずれにせよ、今日においては、両者のいずれかに準拠しなければならないような閉塞状態から、生政治の議論は開放されていることは確かである。事実、アントニオ・ネグリマイケル・ハートによるマルティチュード論、そしてフーコーアガンベンによって選考された議論を徹底的に、そして批判的に精査して免疫型民主主義や、人格(ペルソナ)概念を提唱したロベルト・エスポジトに至るまで、その諸相は広がりを見せている。本稿で概要的に述べた内容にしても、そのような近年の学術的な潮流を斟酌した上で、再考する余地は大いにあることは不動の事実である。改めて本稿では、生権力、および生政治的理解を促す上での前段階でしかないような議論の詳解にとどまったが、それが少しでも読者の一人一人がこの政治的・哲学的概念を深く知り、考えるための一歩となれば幸いである。

 

参考文献:

Foucault, & 渡辺 守章. (1986). 知への意志 / ミシェル・フーコー [著] ; 渡辺守章 訳. 新潮社.

Genel, K. (2006). The question of biopower: Foucault and Agamben. Rethinking Marxism, 18(1), 43-62.