「科学的なもの」の概念との付き合い方

初っ端から、科学哲学⇄政治哲学を梯子するような履修・研究計画を立てたものだから、すこぶる忙しい。おそらく、学部生の時よりかは、勉強していると言っても過言ではないかも。裏を返せば、学部生のときにどれだけ勉強してこなかったのかと言うことの裏返しでもあるが…。

ともかく、科学史・科学哲学研究室という、文理の垣根にとらわれない(が故に何をやる場所なのかわかりにくい)場所にやっと定住できるようになったかとは思う。最低限、「科学的なもの」の概念とは何かしら必ず接点を見出せる環境なので、文系ばかの僕にとっても問題意識の基底を成す観点となる。

簡単に僕の科学観(と言えるほどおおそれたものではない)について開陳すると、まず僕にとっての科学探究の焦点は、科学的客観性に対する懐疑論である。科学は客観的な事実を提示するもの、およびその信憑性を担保する絶対的な後見人とされてからだいぶ久しい。例えば、精神医学にしても、医者の診断は、絶大な信頼、否、ほぼ批判の余地がない判断だと、殆どの人々は認識する。

しかし、そのような医者の価値判断、および診断の客観性を担保するものは何だろうか。この問いに対して、我々は言葉を詰まらせることがほとんどだろう。僕もまた、例外ではない。ただ、一つ確実に指摘できるとすれば、そのような医療的に信頼される医者には、権威性が付与されていること、およびその立場は神聖不可侵なものとされていることだろう。

つまり、僕が「科学的なもの」の概念に対して懐疑的な立場をとるとき、次のことを意味する。まず、医者の客観性にも、政治的な側面によって基礎付けられている様相があるということ。そして、その政治性は、医療的権威と国家権力との間に親密性があり、その権力行使の矛先として患者という存在を要請する点にあるということである。

すなわち、患者とされる人々は、多かれ少なかれ、医療側の権威性にひれ伏す形で治療を施される立場に置かれる。そこには、患者が病の経験の当事者として、己の主体的な声を反映させられる機会がない。故に、医者の声が主権的な力を掌握するような権力空間が、病院という施設内において成立する。そのような状況における医者の客観性は、少なくとも巷で言うような絶対性よりは、医者の動機次第でどのようにもなる相対的で脆弱なものだと言える。

大層長い文章になってしまったが、「科学的なもの」の概念を考えるにあたって、その全能性を盲信しないことは、科学的探究に従事する上で、意識しなければならないことである。当たり前のように聞こえるが、科学的なデータや事実に対して、我々が寄せる安堵感は、我々自身が想像する以上に大きいものである。

しかし、そのような信頼感が巨大化すると、今度は科学というものに対する考えと感情は、極めて宗教的な信仰に限りなく近いものとなる。そのようなことを念頭に置いた上で、科学者、および科学的研究に従事する者たちも、知的な探究を続けなければならないと思う。