もう飛び降りてこの世にはいなかったはずのいじめられっ子が、なぜ今研究の道を歩みながら生きているのか

0. はじめに

今更ながら、自己紹介をしようと思ったのには、僕の人柄の部分があまり伝わることがなかったことがあります。それで思い切って、自分のパーソナルな側面を今回は取り上げて書こうという運びとなりました。

端的に言えば、小さい頃からのいじめられっ子が、なぜフーコーのスキンヘッドに美しさを見出すようになったのか、というストーリーです。どうぞ、ご笑覧ください。

1. 家庭環境

僕は、1996年の8月に韓国の地方都市・大田(テジョン)市に生まれました。そこから3ヶ月後、父親の仕事の事情で、日本に移住し、今日に至るまでここでずっと育ってきました。父親はサラリーマン、母親は専業主婦で、僕と弟をあわせて4人家族となります。

両親のそれぞれの生い立ちにも触れていきたいと思います。

まず、父親は、アルコール中毒の両親(僕の祖父母)によって、7人兄弟・姉妹の中で育ってきました。父親はその長男で、彼の地元の大学の日本語学科を卒業しております。

一方、母親は、不動産を経営していた祖父のもとで育ちました。こちらは6人兄弟・姉妹です。母親は、大学に進学せず、銀行員等の実務を経験してました。

それで、僕の家庭の実情となりますが、物心が付く前から、両親の喧嘩が絶えない家庭でした。父親は、毎晩酒に浸っては、家に戻ると母親に怒鳴り散らかし、酷いときには暴力を振るうような人でした。弟は重度の自閉症を患っていますが、そんな弟にもベルトで殴るなどの行為をしていた時期がありました。僕自身は、数回平手打ちを食らった程度で済んだのですが、今思えば健全な家庭ではなかったと思います。

他方、母親は、何事があっても僕と弟を最優先に考えてくれる、献身的な人です。無頓着に暴れまわる弟の世話をしながら、僕を幼稚園や習い事に送り迎えをしてくれたし、どの側面をとっても心優しい人です。僕に対して、勉強しろなどの威圧的なことは言わない人で、むしろ僕が勉強すること・研究していることや、進路は全面的にサポートしてくれます。それでも、人としてわきまえるべきことをしっかり教えてくれるような、愛情を注いでくれる人です。

2. 地獄の小学校時代

小学校の時は、極めて過酷でした。小2の頃から、「キムチくさいな」「早く国に帰れ」という罵声を浴びせられ、学年が上がるごとに、そのいじめの規模もどんどん集団的なものになってきました。総じて、その間の6年間は孤独感に包まれていたこと、泣いていたこと、誰も助けてくれないのが当たり前なんだという絶望感が当然だったという記憶でいっぱいです。

それでも唯一の救いは本でした。小3のときから読み始めた歴史漫画をきっかけに、山川出版社の「日本史探求」・「世界史探求」をボロボロになるまで読みました。それに加えて、夏目漱石森鴎外島崎藤村といった日本文学、中島敦をきっかけに中国古代史
にも目が開いていました。純粋な歴史少年だったと思います。

3. 精神が壊れた中学・高校時代

中学校のときも、鬱っぽい心の状態が続いていました。そんな中、14歳の11月に初めて精神科に通うようになります。前兆となったのは、中1のときの胃潰瘍です。激しい腹痛が長く続くので、病院へ行ったところ、そのような診断を受けました。嘘だろ、とは思ったものの、ストレスが長引けば可能性はあるとのことでした。それとは別に、身体が震えたり、痙攣が止まらないようなチック症状も出ていました。それらがきっかけとなって、精神科を進められるようになったのです。

思い返してみると、かなり暗い中高時代だったと思います。中学を卒業後、母校の付属校である、早稲田大学高等学院に進学したあとも、虚ろな精神状態から抜けることはできませんでした。イギリスに一年、留学していましたが、その間でも服用薬を飲んでも収まらないほどのチック症状に悩まされたりするなど、あまりいい思い出はありません。

それでも、打ち込めたものがあります。英語でした。中学校に入り、義務教育で学ばないといけないのがきっかけでしたが、わけも分からず、この言語を学んでいく上で強い快感を覚えるようになりました。中1が終わる時点で英単語は5000単語、英文法は中2の時点で、大学受験レベルまですべて学び終えてました。中3の頃からペーパーバックの英文を読み始めるようにもなりました。とはいえ、英語しかできない人間という周囲の声も耳に挟むようにもなり、かなり複雑な心情で向き合い続けていたと思います。

4. 死にかけた大学生時代

そのまま進学した早稲田大学の生活は、当初自分自身を疑うほどに順調なものでした。人間関係の輪も爆発的に広がり、楽しく過ごせていました。ところが、B2を境目にして、そのような生活は暗転します。精神に穴がまた開き始めたのを感じたからです。その時は、韓国に留学していましたが、人の前では気前よく振る舞いながら、一人ではつねに希死念慮を抱いてました。自殺願望が高まったときには、わざわざ日本から親が来るようなこともありました。帰国後もそのような状態は続き、とうとう学部3年生が終わる頃には、自死する一歩手前まで来てしまい、精神病棟に入院することになりました。退院後も、人間関係はどんどん壊れていくばかりで、卒業するまでに5年半を要しましたが、そのときはただ一人でした。

ただ、その中でも幸いだったのは、哲学との出会いでした。当初は政治学・国際関係論を中心に履修していましたが、次第に関心は政治哲学、現象学へと移っていき、フーコーをはじめとしたフランス現代思想に落ち着きました。最初読んだ哲学書は、ハイデガーの『存在と時間』でしたので、当然読み終えることなく途中で諦めましたが、その時感じたのは、全く歯が立たないくらいに難しいけど、それでも不思議なほどに深いこの世界がもとから自分にあっていた、といことです。

5. 終わりに

そのような哲学探究を続けていく中で、その3年目にして現在所属する、東京大学科学史・科学哲学の研究室でしこたま文献を読み漁る毎日を送れるようになりました。色々、絶望的でしたが、その中にも希望の光を見いだせたのが嬉しかったです。

ここまで、長文を読んでいただきありがとうございました。これからはフーコー研究をさらに深めていくべく精進してまいります。改めて、よろしくお願いいたします。