存在の弱さは、思考の強さ

もとい僕は「おとなしくしていればいい」だけの人間であった。「ガイジン」にしては、この国で持つものを持ちすぎている。少なくとも、「知識人」という立場にいてはいけない、周縁的な生が僕にとっての本来性だったはずである。

僕はマイノリティとして社会的に「雑魚な」人間であり、マジョリティの中で社会的に「マッチョ」な人間でもある。どっちつかずな人間なまま。だから、あらゆる人から非難の対象になりやすい。

端的に言って、マイノリティのくせに、マジョリティが頑張っても得られないものを持っている。有事の際に、社会的にも肉体的にも、大衆による供犠の対象になるのだろう。

今更、このような状況に対して逆張りをしようと思わない。とは言え、四面楚歌な状況に陥ることは決して甘受しようとも思わない。このように、中動態的な存在者である僕は、どのような言葉や思惟を開陳したところで、社会一般には、排泄物的な声にしかならない。

どっちのサイドも取らないが故に、どのサイドも取っているとも思われる。僕の存在。それは、かくも同質的で単一なこの社会に混入された異物である。それ故に、ただどこかしらにいるだけで、忌々しい汚物である。

だが同時に、このようなダブルバインドから被る恩恵もあった。まず、どのような立場であれ、思想による観念的なスペクトラムのどれにも自らを当て嵌める必要がないということ。何はともあれ、二者択一的な世界観が支配的な社会において、第三項的な立場から意見を述べられること。

思えば、そのようなアンビバレンスが、僕を研究の道へと誘ったところもあるだろう。確かに、サバルタン的な存在者にとって、自由が拡張されている側面と、それが故に却って束縛される側面の間に広がるジレンマは、避けて通れないものである。

だが、それはあらゆる面において、僕の思弁的な強靭性を磨き上げるためのあらゆる契機を提示してくれた。いささか傲慢な言い回しとなるが、思考に耽ることは、社会という全体性から疎外された者こそが享受しうる、特権的なタラントではないだろうか。