知能指数(IQ)を知ること、および「ギフテッド」に対する理解の促進は、社会の分断を改善するのだろうか。

 「ギフテッド」、その前はIQ(知能指数)という形で、現代人とされる私たちは、己の知能だけでなく、他人の知能のあり方にまで関心を示すようになった。それに伴い、「ギフテッド」というカテゴリーは近年の世相において、日常的な語彙のひとつとして語られるようになった。


 また、そのような類であるが故の苦悩や、支障を語る声も多く反映されるようになった。「ギフテッドだから」とされる悩みや問題、僕も数字だけで言えば該当者なので、今までのトラブルの根源をそれに求めることも理論上ではできるのだろう。ただ、このカテゴリーに該当するかを決める数字の基準、特性の基準が依然として判然としない、腑に落ちないところが多い。


 端的にいうと、僕自身は数字=人間の思弁的活動の指標程度にしか考えてない。それもあって、IQ自体は全く信じていない。また、知能に対する一般的な理解の仕方が、社会への適合者/不適合者を仕分ける優生学の残滓みたいなものである。そこから派生した「ギフテッド」という捉え方も、過去の生政治的な影響から免れていない。


 では、今まで僕が受けてきた対人における不条理、疎外感を説明するのは何かと言われると、言葉に詰まるのも事実である。それでも一つ言えることがあるとすれば次のようなことである。すなわちギフテッドに限らず、IQとかそういった「知能」の概念を援用しないと該当する人の内外の問題を語れなくしている社会のあり方は病理的だということである。


 この問題に該当する「当事者」が、彼らなりの苦労を述べる上で、ギフテッドという概念を用いることは確かに理に適っているだろう。しかし、それは聞き手となる相手の感情を否定的に鼓舞したり、意図していないにもかかわらず、「自慢している」という認識を抱かせやすくする。


 「ギフテッド」という概念が認知される以前からこのようなパラドックスはあっただろう。ただそれを公論の俎上で言及しても、余計に既存の溝を深めてしまう虞がある。厳密にいえば、話し手と聞き手の間に予め認識論的な不均一性が土台としてあり、語れば語るほどにその認識の齟齬が両者共に無意識なまま強化されていく。それが「ギフテッド」、IQについてあらゆる言葉で語ることに内在する問題なのではないだろうか。


 事実、このような問題は、社会構造の機能不全状態を暗示するものではある。一方で、「IQが高い=知能が高い=頭良い=…勝ち組」、あるいは「IQが低い=知能が低い=頭悪い=…負け組」、といった連鎖状の観念形態を無批判で甘受し、再生産を続けてきた大衆もこの対立構造を常態化させた側面がある。挙げ句の果てには、皆揃って歪み合い、憎しみ合う。正しく人災である。少なくともIQがわかったり、自分がギフテッドだとわかったとしても、そこから何か肯定的になれる要素がなければ、それでさらに自己の理解が深まることもごく稀であろう。