我思う、ゆえに世界あり

はたからみれば、自己肯定感とされるものが強い人は素敵だし人柄がいいと思う。おそらく周りの人々からもいいエネルギーを受けているのでしょう。僕も、そのような自信を持って動き、なおかつ周囲に配慮できる人は敬愛する。

ただ、僕はそのような自己肯定感がごく普通となった世界が怖い。外部から高められた自己肯定感はエゴイズムに陥りやすいものだな、と思う。そこの盲点が見えなくなることが一種の恐怖だし、またそれが、この世界に自分が君臨するかのような皇帝的な自己愛にひたすら戦慄する。だから僕は自分を好きになれない。

できれば、ナルシズムという表現は避けたい。ただ、自分を中心に世界が動いているという無意識に埋没している、自分という主体的な人間の存在は常にグロテスクなものである。そのような生の事実を否定するだけの勇気は僕にないのは確かだ。

また、そのような自己肯定感と集団的な団結力、連帯とは親密なつながりがあるように思える。あらゆる側面で、集団行動が内在的に規律化されていくのが社会だ。自集団への忠誠、及び愛着はほぼ誰しもが疑いなく、各自の形で抱いている。

しかし、そこで僕は立ち止まる。その輪の中に他者はいるのか?否、自分という存在は、個別的なものとしているのか?さもなくば、その中に存在しているのは、他者という数多な「鏡」を通して、自分という人間を全方面的に反映させた不特定多数の「自分たち」ではないのか?

そのような、不特定多数の「自分たち」はキメラのようだ。慣例的には、集団主義は、collectivism と英訳される。しかし、僕にとって、我々がなんとなく言う「集団」という概念は、group や team でもなく、単なる my-egos なのだ。ゆえに、僕は集団主義を egocentrisms と解釈する。