表象の欺瞞:自己表象の要因としての「代理」

 出だしから個人的な意見を述べることで、文章を書き始めることをご容赦願いたい。つまり、(日本人としての自己意識があるならば)どの人でも「日本人の礼儀正しさ・謙虚さ」という言葉を使って自己表象するならば、心の奥底で、「白人様、私たちはバカチョンども、支那人よりかはましです」という告白をしてるんだな、という眼差しを向ける。これは、例えば留学している日本人が自国を紹介する際に用いるテンプレート的な言葉だが、私にとっては「善意を装った他者への見下し」の前提から来る含蓄に富んでいるように思える。

 話は早速それるが、「日本人はユダヤ人の遺伝子を引き継いでる!!そこにはちゃんとした証拠がある!」(大意)みたいな陰謀論を語った本が書店でも見かけるようになった。しかし、その言葉が正しいとなると、「私たち日本人はずる賢い人間です。喜んで人を騙し、金銭欲は無限大です。それでも、天才的な頭脳を持ち、世界の知性の水準を高めることに寄与するぐらいには優秀な民族です。」と自白するような発言になる。過去に近隣諸国の宗主国だった経緯を踏まえると、憎まれ役を喜んで買うような物の言い方である。

 つまり、自集団を他集団の存在を代理に持ってくる形で自己表象すると、その他集団にまつわる偏見・ステレオタイプにも同質的な要因を読み取ってると証言してしまう。ここで本題に戻るとする。最初で述べた日本人の「告白」を通したアイデンティティーの確認の仕方でも、やはり優位的な他集団と自集団を同一化させたいという欲望と、見た目が似ている韓国人と中国人を一切縁がないものとして抹消したいという欲望の間で生成される「日本人像」が垣間見える。

 この複雑な、そして自集団の惨めさをどこかで燻らせているかのような「主人意識」への尽きることのない強欲さの裏返しに「日本人らしさ」がある、と無自覚に肯定するような言説が流布するのは、却って「日本人」にとって何も良い帰結をもたらすことはないのではないだろうか。それでも、「日本人」はそのような「自分の姿」を「真実だ」と言うだろう。つまり、「日本人とは何か」についての〈真理〉を語れるのは、「日本人」にしかできないという自負心も持っていることがほとんどなのである。

 同時に、第三者からその〈真理〉の矛盾を追及されると、やはり彼らは「それは〈虚言〉だ」と断固反論する。ただ、このような「他者が語る〈日本人〉の姿は〈虚構〉だ」という日本人の反論の仕方を象徴的に定理化するならば、そこにはまた一つの問題を孕んでいることがうかがえる。すなわち、〈他者〉といえど、自集団より優位な出自の〈他者〉、すなわち「白人」が表象する〈日本人像〉は常に〈自分の真理〉として積極的に受容するのに対して、「その他」の〈他者〉、つまり非−西洋圏の人間が表象する〈日本人像〉は、〈虚構〉として即座に捨象するのである。このようにして、日本人の「他者像」もまた、日本人自身による恣意性の産物だということができるだろう。

 最後に、自らを表象することに内在するポリティクスについて一つ言及することによって、本文を締めくくるとする。まず、表象の生成において、常に原理となるのは「友/敵」の排他的な二項対立ではないということである。これは、(集団的な)自己を認める上で、他集団の表象も厭わずに積極的に利用して、肯定的なイメージを作り上げることも意味する。つまり、非−自己性は、相容れない他者の判定に用いられるばかりか、自己の肯定的な特徴をより脚色するための「客観的な材料」として使われる道具としての側面があるのである。

 陰謀論的な論拠に基づく日本人優位性も、より一般的な形でなされる他者・他集団の否定、および優位的な他集団自身の自己表象を「剽窃」して自集団の優位性を主張することも、構図としては同じ穴の狢なのだ。自らを「表象する」ことは、自らを「欺く」ことでもある。自己表象とは、すなわち他者による他者自身の表象を「代理」として使う余地まで想定した上で達成される「自己欺瞞」だと言える。