研究という「音」

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「キムさん何をやられてるかわからないのですが…」と申し訳なさそうに述べてくれる方も時たまいるが、むしろその認識で間違ってない。だけど当惑してしまうのも、一理ある。

というのも、他者を括り付けて対話できることもあれば、それが全くできないこともあるからだ。誰かの研究について知りたいというときは、もっぱら後者なのだろう。とはいえ、括り付けは常に壊れていくものだとしているから、自分のやってる研究を「政治哲学」「認識論」「フーコー研究」のいずれにも当てはめるのは正直好きじゃない。

もし研究を一つの音の流れだとしたら、それを奏でる器材、楽器はたくさんあるでしょう。その一つ一つがいわゆる「分野」とか「領域」とされるものになる。すると、「あの音」や「この音」を出してみたい、となればそれぞれにあった楽器や器材を用いて奏でるのが順当ではないかと思う。

話を戻せば、研究は、多様な「音」を演奏するような行為と似ていると考える。だけど、同時に自分のやってる事を客体化する上で避けられないことだから、「ひとまず」フーコー研究としている次第です。