社会学・人類学に未だに潜むオリエンタリズム

今日は、「君主制の議論でジェンダー理論を導入する必要がある」と明記した文献を読んだ。率直な反応として思ったのは、そのような「主語の大きい」提案よりも、「なぜ今まで queenship の話が系統化されなかったのか」という無知論的な問い建てのほうがまだ検討しやすいのではないかということである。いきなり「ジェンダー研究」と言われても幅が広すぎるわけだ。

例えばバハオーフェン母権制の話や、ユング的な意味での母性性論・集合的無意識の話を無視しすぎたのでは?という節もある。言い換えると、ここで「ジェンダー研究」のあり方を批判するにしても、学際的な文献の批判・議論の範囲がまだ広いといえない現状があるのだ。そこに目を瞑ったままで「ジェンダー」的なアプローチを確立させるにしても、その方法論的な構築上で困難をきたす可能性があるだろう。

とはいえ、ジェンダー研究そのものがオリエンタリズム的なのは無視できないと考える。中華文明圏での歴代王朝における女帝・女王、皇太后女性天皇の存在に目が向いてないのでは、とも(それこそ卑弥呼....)。つまり、オリエンタリズムが「構造化」された学問として社会学・人類学が根を下ろしている側面は看過できない。また、そのような領域から「構造批判」をするにしても、それを探求する自分自身の眼差しを象る「色眼鏡」を認識した上で整理しないといけない。

社会学・人類学に携わるのであれば、社会の「構造」と研究する人間としての「主体」の間の緊張した距離感をうまく調節できなければならない。それが上手くできない人が数多と「社会学研究」「人類学的視点」にあやかってきた結果、「社会正義」が氾濫する世相になった節もあるからだ。

また、社会構造に対する批判は、レヴィ・ストロース以降の「現代思想」で散々に語り尽くされてきたのも事実である。もし、社会科学がその「焼き増し」みたいなことを今更延々とやってていることを自覚しなければ、その領域内で「構造批判」する意義はあまりないと考えられる。

むしろ、そのような研究に対する姿勢は、研究者自身が対象とする社会・民族への公平な視点、対等な他者として尊重する心構えを育むどころか、自集団がいかに文明的で、かつ自分自身を客体化して公平に見れるのかという自尊心を増長させるだけである。故に、社会学的・人類学的な視点に基づく探求は、まず内生的な自己批判から始発しなければならない。