研究を始めてから気づいたこと

研究は難しい。そんなことを、今更のように痛感している。ここで言う「研究」とは、問いの設定とその対象の考察、そしてその解になる考えのあり方を模索する行為、及び姿勢としよう。

早速、本題に入ると、「なぜ?」の焦点の定め方と、そのレンズ調整の仕方に研究の難しさがある。言うまでもなく、誰しもが当たり前とすることにわざわざお節介な観点を確立するのだから、大層難儀を感じる作業だ。

そして目の前の事物・現象に対する好奇心をただ言葉にできればいいわけでもない。それと同時に、自分の問いに対する違和感の輪郭をくっきりと描き出す努力も要請される。

僕自身の場合、そのような問いの地盤となっているのは、「健常者/異常者」を区切ろうとする人間の自他の意識に対する懐疑的な立場である。そうなると、まず「この人は普通/おかしいと判断するのはなぜか」という問いが来る。

この問いの前提として据えているのは次のような命題である。

・人間の中の正常と病理は、区切りが曖昧なものである。
・にも拘わらず、人間はその中に分断を(あえて)見出そうとする。

ここまで言語化すれば、十分そうに見える。

しかし、実際はそこで終わらない。その問いの妥当性、設定する際の理論的背景、方法論…等々、検討すべき項目が山積みになってくからだ。

また、粗っぽい印象論に従うと、研究の意義はしばしば「答えのない問題に取り組むこと」と同義とされる。たしかに、強ち間違いではない。だが、それではその意義に対する説明が不十分だと感じる。なぜなら、「答え」というものが常に最終的なものである必要もないからだ。

それは何を意味するのか。また、そのような「仮の答え」を追求する研究とはなにか。私見ながら、僕は研究の意義を次のように捉える。

すなわち、

1)たとえ自分が生きている間には見いだせなくても、後世の人たちがそれを参照してより次元の高い問い・解への追求の仕方を思案するためのヒントを準備すること。

2)過去の学術的な遺産を踏襲しながら、今・ここの出来事を問い詰め、これからの羅針盤になる知を構築し続けること。

3)一つの軸となる領域を定め、そこを始発点とした多角的な論点を見出すこと。

些か熱が入りすぎたが、それが研究のあるべき姿だと考えている。

PS.

研究に限らず、自分より英語できる人、自分より思考が深い人、自分より文が書ける人。昔はどれをとっても、「なにこの」と歪んだ感情を抱いていた時期がありました。だけど、そんな方々こそ自分にとって最高の刺激になることに気づきました。今となっては、自分の可能性の伸び代の広さを気づかせてくれる存在です。