「神は国家なり」:異端的国家論断片

初めに国があった。国は神と共にあった。国は神であった。 この国は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

国なきもの、それは同じ発音、同じ言葉を語らないものである。故に私は「裁かれた」。私が堕落した罪を悔い改めることも、〈救い〉を待ち望むことも、赦されない。

お前は〈神〉を信じるか。それに対して「アーメン」と告白することが、人の生を享受する条件である。もし、この「問い」で寡黙するなら、その人には〈死〉を与えられる。

ネイションは現代の「エデンの園」である。そこに住まう「天使たち」にとって、この問いに対する〈解〉の無知は、堕落に至る原罪なのだ。彼らにとっての(しかし〈不在〉なままの)〈神の名〉を言わないことは、彼らの創造主の否定になるからだ。

そして、この原罪は贖いの余地がないほどに重い「掟」破りなものだ。〈神の戒め〉とは、自ら住まう国の〈真理〉に立ち入って知ることをしないことだった。しかし、この「禁断の果実」を齧ることは、それが「虚ろ」だと異議を申し立てることである。その罪人に、〈キリスト〉が来ることはない。

God is national. In God we trust, we pray. Amen.しかし「神は死んだ」。ゆえに、「国は死んだ」。それでも、「私たち」は信じますという信仰心の篤い共同体が随所に偏在する。民は聖体、あるいは国の亡骸に泣き縋る。〈救い主〉が臨まれる日を待ち侘びながら。