「祖国のために、ふるさとのために」

 国民とは、私たちの生来的な(生物学的な)身体に刻まれたもの、つまり国家が私たちの存在がその政治的共同体の中で成立していることを裁可する認印である。また、同時にそれに基づく国籍を何かしら持たなければ、私たちの身体は極めて自然的なもの(アガンベンが言うところの「剥き出しの生」)となる。

 そのようなナショナルな土台に由来する「共同性」は、もとい中世から近代の中葉までの専制政治において王がその臣民を斉一的に統治するための正当性を付与するための〈法〉であった。だが、そのような〈法〉は、いまや国家が人民を統治するためのものへと「翻訳された」ものとなっている。それは祖国という(フランスの哲学者、ピエール・ルジャンドルに倣って言えば)〈ドグマ〉を無限に生産し続け、また私たちが愛国の演劇を演じるための「セリフ」としても機能する。

 これを言い換えると、「王」について知り、考えることは、「国民」としての私たち自身を知り、考えるためのヒントになる。というのも、「国のトップ」という存在は、何も遥か彼方遠くの世界のものではなく、私たち自身そのものだからである。久しく、日本では「国のトップ」といえば、政府の高官、あるいは象徴的な存在者としての天皇に限ったものとされてきた。しかし、もし日本が民主主義的な国家だというのであれば、それは甚だしい誤謬である。なぜなら、本来ならば私たち各自が、「国のトップ」とする制度が民主主義であるからだ。

 だが一方で、そのような「国民意識」の枠組みのなかに当てはまらないような人々も増えてきている。いわゆる「故郷喪失者たち」と社会学者、ピーター・バーガーが呼んだような類の存在である。この根無し草のような散財の仕方においては、故郷がある感覚も、故郷を喪失する感覚も、実体的なものとして構成されない。

 国民国家の制度においては、どの人も、大同小異ながら「故郷」というものの存在を自明的に認識しているものだとされている。私個人の肌感覚によるものだが、実生活でもオンライン上でも誰かと対話する上で、彼らにとって「故郷」とはあって当たり前なものだとする態度は、自然的なもののようだった。それは、同時に私という人間が包容されながらも、その輪から疎外されていることを暗示しているかのようだった。

 私にとって「故郷」は虚構的、言説上のものだが、彼らにとっては実在的でどの生に直接的に関わるものらしい。つまるところ、故郷があった方がいいかどうか、という話ではない。ただ、それがなぜ自然的な感覚となっているのかという問いは、追求に十分値する。外在的な何かに寸断されていない、本来的で純粋な「人間」を自認するにしようとしまいと、「故郷」は我々が思うほど情緒に溢れたものでない。「故郷」という人工物をもって、なぜ我々は生のドラマを演じたがるのか、真摯に再考せねばならない。

 最後に、再三となるが、「王」の生態を知ることは、民主主義における私たち自身を知ることになる。しかし、ここで専制政治における「主」と「下僕」の関係性と、民主主義における「主」と「下僕」の関係性を混同してはいけない。また、国家、および現代の社会制度は私たちが抱く「ふるさと」への憧憬を、神話的な形で利用する。そのような、「公益性」を美化するような言説は、公共交通機関や、商業施設の広告など至る所にみられるようになった。

 実際のところ、「故郷」というのは、我々が帰る場所というより、ナショナリズム的な自他像と、資本主義的に構築された現実が交叉する場所なのである。しかし、そのような〈フィクション〉と〈真理〉の間を常に揺れ動く振り子のような概念なはずの「祖国」と「ふるさと」は、今日もなお、この世界のいたるところで人々の痛みや憤り、すれ違いを生み出しては死の接吻の契機をもたらすようなものになってしまった。