「外国語を学ぶ」という誤謬

よく「金さんが使ってる日本語の単語が難しい」と指摘されることがある。この原因として(こじつけかもしれないが)赤ちゃんの頃は韓国語が専ら行き渡る家庭環境だったからなのかもしれない。韓国(朝鮮)語は、日本語より比較的に漢語由来の語が日常的に使われやすい言語かもしれない。

例)
日本語:譲る、(性格が)冷たい、しつこい
韓国(朝鮮)語:譲歩する、冷酷だ、執着する

ハングルで表記された後者の語を漢字に置き換えると上のようになるだろう。私が見る限り、日本語の「堅め」な語彙が、韓国語では日常的な「ふつうの」語彙であることがしばしばあるように思える。

ところで、韓国語と日本語は確かに文構造は酷似していて学びやすいかもしれない。しかし、それぞれに根付いた言語感性からして、互いに全く異なる言語だと言えるだろう。同じ概念を同じ言い方をするとは言っても、互いの表現の仕方は合致することは中々難しいだろう。

ここ最近だと、外国語学習の対象として韓国語を履修、ないし趣味で学ぶ日本人は一定数安定しているようになった。学びやすさだけでなく、文化的な親和性もその理由だろう。しかし、そこに感じる魅力は、根底的には自集団とは「異なるもの」が惹きつけてくる磁力に等しいものである。

依然として似たもの同士でも、時には衝突しあう「最も近くて、最も遠い」関係である。そのような「遠方からの隣人」といかに向き合うかは、テンプレート的に考えるだけでは不十分だ。生身の人間とだけ向き合うのではない。生きている文化、生きている言葉が海を超えた先にもあるという感覚を持つことが、何よりも重要なのではないか。「外国語」を学ぶのではない。他の「生きた言葉」を学ぶことを意識する必要がある。