ジャニー喜多川の性加害事件を通して見る「無責任な社会」のあり方

 ジャニー喜多川とその性加害。芸能界の在り方が瓦解していく兆しであると同時に、日本社会に固有の集団的なナルシズムが露呈されていくことを望む。以下、できるだけ簡潔に今回の事件について思ってきたことを述べたいと思う。

 

 まず、ここでは、芸能界の展望については論じない。事の本質はそこにあるように思えないからだ。むしろ、日本社会において、社会的地位の高い人間に罪を問う体制が脆弱であることが問題なのだ。確かに加害した事実を隠蔽するかの如く、自分が応援してきた存在を庇護するファンたちの行動原理も問題である。だが、むしろそれを許容してきた事なかれ主義的な動態で機能してきた世間の中に、一連の事件の病巣を見出すことができるのではないだろうか。

 

 つまり、ジャニー喜多川は、彼自身率いてきた組織の中で疑似国家的な支配体制を構築していたが、それを希釈化したのは、まさにそれが提供したものが「ポップ・カルチャー」であったことであろう。ファンには「夢」を与える。しかし、それはつまるところ幻想でしかない。とりわけ、その「夢」を与える側のタレントたちには、男社会的な権力空間に服従しなければならない「現実」を見せる。ゆえに、ジャニー喜多川は、それが構想するエンターテインメント的空間においては、絶対的な「王」たる存在であったのだ。「夢」を見せる対象と、「現実」を見せる対象の両者を操れる、強力な主体をもったのが、ジャニー喜多川だったのではないだろうか。

 

 しかし、ジャニー喜多川の事件は、そのような権力構造が偏在する日本社会の様相の一つの側面でしかない。そのような、「王」の罪を問わない無責任の体制が最も顕著に現れたのは、敗戦後の極東軍事裁判である。軍の指導部は責任を問われ刑罰の対象とされたのに、天皇はなぜそのような訴追から免責されたのか。当時の政治的情勢を鑑みて、諸説はあるにしても、それは「王たる」存在者は、自分の生命に影響が及ぶほどまでの責任を負う必要がないという前例を示したものだと考えられる。つまり、組織や集団の首長に対するアニミズム的な信仰が象る共同体意識は、たとえその指導者に咎があるとしても、その成員は必然的に彼との「絆」や「恩義」に基づいた感情を最優先にして動く。

 

 総じて、ジャニーズグループをめぐる一連の事件は、集団や組織の主導者の放蕩ぶりに対して、日本社会が「けじめ」をつけることができなかった、否、そのことを忌避してきたつけの一つなのである。そのことを確認するプロセスを徹底しなければ、今回の事件もまた社会的法則が反復されることを認識する程度にとどまってしまうだろう。