「他者に丁寧で思いやりのある」人々の国のあり方

身体拘束「なぜ心が痛むの?」「地域で見守る?あんた、できんの?」精神科病院協会・山崎学会長に直撃したら…:東京新聞 TOKYO Web

この人物の来歴云々はともかく、記事構成の按配としては比重がよく取れているのでは、と思った。以下、精神疾患の哲学的探究を標榜した先行研究をそれなりに読んだ上での感想を共有したい。

まず、結論から言えば脱制度的な精神治療が成立するほど、日本の社会的靱帯は強くないとは思う。日本の「ムラ社会」的構造が氷解してから、集団と個人の相関が液状的に変化したのも一因だろう(cf. Bauman, 2000)。故に、「地域で見守る?誰が見てんの?あんた、できんの?きれいごと言って、結局全部他人事なんだよ」。

また、精神病患者の拘束に関する「抗いのポリティクス」にしても、医者と患者の正面対決ではなく、医者と患者、および患者の連帯者という三項関係の場合が殆どであるようにも思われる。すると、現実的に交渉し合えるのは、医者と患者の連帯者で、「当事者」の患者は三人称的な他者として放伐されがちである。

最後に、患者の身体的自由を公権力的なテキストに依って制約することの是非は、複雑極まりない議論の対象であることは言うまでもない。私自身、医者-患者の二面性で精神医療的施設の解放運動のあり方を考えていたが、この構図におけるアクター、およびその諸関係もまた複雑であることを留意する必要はあると考える。

総じて、現時点での日本社会では、19世紀初頭のイギリスにおける精神保健改革や、戦後期のイタリアにて制定された、精神病棟の撤廃を制度化したバザーリア法の類が生まれる気配は皆無だろう。精神医療改革とは言うが、まず初めに本当に変わるべきなのは、日本の社会=共同体の形相である。

社会の変容は、社会の構造的変化を必ずしも指し示すものではない。むしろ、私たち一人一人の意識の変容を要求することでもある。しかし、そのような変化を遂げられるほどに、人間の意識は柔軟なものなのだろうか。むしろ、その変化に抗い続けるための意識を保持することに、無意識で躍起になっていないだろうか。かくして精神病院は、「他者への思いやりに満ちた」とされる日本社会の「病んだ」実態を映す鏡の一枚なのかもしれない。