<民主主義>:「ふつうの人」の、「ふつうの人」による、「ふつうの人」のための世界

f:id:wjk_9625:20220705091907j:image

 なにが「ふつう」で、なにが「特別」なのかを峻別する(差異を見出す)見方は、至って「ふつう」である。normal / abnormal, good / bad のいずれかを「決めなければならない」という必然性を感じるのも、また「ふつう」な感覚。何が言いたいかというと、このような「ふつう」な感覚による<民主主義>は遥か大昔からあるということ。

 換言すると、政治に参加する市民が相互にメタ・コミュニケートできなければ、「今どき」の民主主義は架空の制度に等しくなる。すなわち、以下のようなメッセージから、またさらなるメッセージを見いだせることが、我々が理想とする民主主義における、「理」に適ったコミュニケーションである。

 つまり、「リベラルの時代だから、これからの歴史は終わる」というような言説に、「それ以外の思想は亜種だから淘汰されるべき」といったメッセージを抽出できるか。或いは、「普通なら、弱者のために声を上げ、連帯して支持を表明するのが反差別である」というような言説に、「独善的で、政治的な沈黙を保つのは、異常で差別主義的である」といったメッセージを抽出できるか。

 つまり、リベラリズムは、その他の「排除されて然るべき思想」になりうる<他者>との関係性がなくては、存在し得ないように、反差別による健常者性も、差別主義による異常性としての<他者>との関係性はなくては、成立し得ない。「リベラリズム保守主義(その他)」、「反差別/差別」の断絶的な「いずれか」ではなく、【リベラリズム保守主義】、【反差別−差別】のように、一見相反する二者間に内在する「連続した」関係性があるのである。

 総じて、現代社会においても、人類の高次元的な啓蒙の象徴としての「民主主義」は、未完のプロジェクトでしかなく、我々は依然として、先に述べた「ふつうの感覚」による<民主主義>の「完成された」歴史がもたらす帰結のなかを生きている。大概、我々が理性と共に歩んできた過程と信じているものは、惰性の痕跡なのが、その実相である。