「知る」寂しさ

 やっぱ、どんだけ他者と親しくても(としても)、物事の考え方とか、その認知の解析度の高低で、すれ違いがおきてしまう。標準となる対象を同じく定められているかの問題じゃない。感情の「共感」でも「共有」でもなく、互いの理性が「共在」しているか。知の営みとはいっても、その姿は一様に語れるものじゃない。

 じゃあそんなお前はどうなんだよ、と言われると、はて自分の知的な営みはどんな様相を見せていることやら、と頭を抱えてしまう。少なくとも、「放蕩息子」のような路程を歩んでいるのは確かだ。ともかく、そんな自分がいろんな分野に目を開くようになったのも、持続的な集中力の欠落に有ると思う。

 自分の神経症がそうしてるのか、はたまた怠惰な性格だからかはわからない。とある点とまた別の点の間の関係性を見出すことにそこまで難儀を感じない。だが、一つ一つの点と長らく対峙する忍耐強さが足りていない。ただ、その「適当さ」や、ある意味自分の思考の「ふしだらな」側面に僕の特異性を確かめられる事が多い。

 少なくとも、なんたら症、なんたら病だから特別な〜、みたいな異常性へのフェティシズムをこじらせているわけではない。ただ、そのような生に意識が向いているから(attention à la vie)には、僕の中にはなけなしの「健常者」たる自己が潜んでいるのかもしれない。果たして、このようなヤブ精神分析を自分自身にあてたところで何になるか。

 閑話休題。傍から見れば、それは独創的なものと親しいのかもしれない。だが、このように病的な脳の働きから出てくる思考や言葉には、連綿とした一貫性や、コンテクストがない。どれも、突発的なのである。点と点を結ぶどころか、そのリエゾンとは無関係な、また新しい結合を見出そうとしているときは満更でもない。カオスな脳みそなのは間違いない。自分でも、何考えてるのか、何を言っているのかさっぱりわからないときもある。

 それに、一般的に好ましいのは一人一人の「個の知性」より、共通認識になりやすい「集団の知性」なんだな、とも学んだ。ただ、自分が「いいこと学んだ」という感動や興奮よりも、公益性があるかで「分かち合えるもの」が決まるのって、どこか寂しいし、計算づくめの世界生きてるな、と思う。もうちょっと、学ぶことって純真な楽しさがあるはずなのにな、とは思う。