言葉から逃げる

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 もし、文法が「法」(law, loi) ならば、その「法」から逸脱した言葉には自由 (liberty, liberté) を謳歌するような、どこか悠々としたものを感じる人が多いと思う。つまり、言葉は逃走する (escape, échapper) ものだといえる。また、それは主体的な存在者である私たちの発話 (enunciation, énoncé) と、文−法 (grammaire comme la loi d'écriture) との絶え間ない闘争の痕跡 (trace de la guerre) を表す。

 おそらく、ほとんどの人が言語能力を喋れる (to speak, parler) かどうか、つまりパロール (parole) の運用力で判断するのは、その非文法的な (ungrammatical) ところにあるからじゃないか、と思う。そのように判断するのは、法としての言葉 (langage comme le pouvoir de régler) が私たちが生きていく上での活力 (élan vital) を堰き止めるダムのように行使される権力を無力化したいからだと考えられる。結局のところ、私たちが言葉を用いるのは、おおよそ他者との円滑なコミュニケーションを図るためであり、そこにある「法」を意識した対話の構築ではないのである。

 「だが、しかし〜」('but, -') による断続的な逆接の論理ではなく、「〜と、〜で、(だから)」 ('-, and, -') による持続的な順接の論理を用いることに、私たちの対話の正常性が機能していると考えられる。ゆえに、文−法通りに喋ると (to speak literally, parler à la lettre)、どこかぎこちなく思えるのも、言葉が「拘束」されてるかのような「違和感」を却って覚えるからだろう。もちろん、どの言語にしてもその文−法が母語的 (gram-mère) なものか、あるいは外国語的なものかでまた意味合いは異なるが。いずれにせよ、持続する言葉 (la parole durée) を操るのが社会的な動物としての人間の性なのであろう。