言葉の本来性が淘汰された「コミュ力」

率直にいって、僕が何度もしつこく言葉の「モノ化」、あるいは言葉はコミュニケーションの「ツール」にすぎないとするナイーブな考え方を嫌悪するかというと、言葉の多義性に耐えられないとどんな事柄も本質的に理解することが難しくなるから。

だが、ほとんどの人は言葉を「辞書的に」、あるいは「逐語訳的に」解釈するにとどまって、その言表が孕む多層性を全く考慮しないことが多い。言葉を惰性的に用いてることで言いたいことが伝わると信じて疑わないことも多い。これは個人的な所感でしかないが、言葉の一つ一つの意味を厳密に峻別して解釈を編み出すことに、相手があまりにも無頓着だと、対話する上でかなり支障をきたすことが多くなってしまう。

また、言葉の意味の多重性を斟酌した再解釈の余地を見出すことを、相手が無意味としている場合には、僕の声はまたたく間にただの「ナンセンス」の羅列としか認識されなくなる。かつて「僕は相手に理解されることを諦めた」といった背景には、このようなことを踏まえたものでもある。今どき、「コミュ力」というものも甚だしいほどに単調なものになってしまった。言葉の有機性を抹殺した上で、その道具性にあやかるだけでは、言葉での「対話」は生まれない。

それはむしろ「開かれたもの」ではなく、自分の世界観という殻に引きこもるための自閉性を他者にぶつけるための「武器」にしかならないだろう。自分の主観的な「あたりまえ」を、相手は共有できると無垢に措定するなら、それは相手に認識的な暴力(epistemic violence)を奮うことと等しいものになる。

総じて、コミュ力重視な社会、そして「会話」できるようになることが言葉を使うことの本質だとする個人のあり方が言葉を「商品化」して消費し合う循環を作る。ただ、それはこの世界のあらゆる事象を過剰に具体化することも意味していて、その抽象性に内在する本質をことごとく淘汰してしまう。一般化された理解の危険性はそこにあるのだが、殆どの人はそこに無意識な状態に留まる。このようにして、言葉は唯物化され、また諸個人の単一的な認識を供給・生産する言語経済(language economy)の「貨幣」となる。