言葉の「つっかえ」とはマブダチ

時折脳裏をよぎる「やはり自分が流暢に話せる言語は一つもないのではないか」という、考え。自分が相手の発言を理解したとしても、僕が日本語で伝えた内容は半分も相手に届かない。日本語を母国語とする者同士のミスコミュニケーションとは、また違うといったら大袈裟だろうか。

自分が喋る・書く「言葉」が冗長でややこしいというような指摘は受けるので、それなりに意識して調整かけてきたはず。だけど、やはり(僕が認識する限り)日本人同士の会話より、僕との会話とで相手が受け答えに苦しんでいる様子を察してしまう。杞憂であるかもしれないにせよ、どれだけ長らく日本語を喋ってきたとはいえ、ネイティブな言語環境で会得したものでないことへの後ろめたさを感じてしまっている自分がいる。やはり、日本語を話すことは、僕にとって(本来なら期待されていないはずの)「日本人」という役を演じるための「セリフ」にしかならないような気もするのだ。

日本語での話し言葉と書き言葉、どちらも自分でもぎこちなさを感じ取れる(その他の「外国語」の水準もたかが知れたものだという意味にもなるかもしれない)。自分が意味を伝達するという目的性に拘泥し過ぎているからだとしておくが、やはりモヤモヤは残ったまま。

ただし、このどっちとも取れない板挟みな形をした「つっかえ」が、ありとあらゆる考えの可能性や方向を定めてきたことは、自分の生にとって確かなる事実である。少なくとも、かくして振り子のように揺らぐような「言葉」の使い方が抜けることは、よっぽどなことがない限りは極めて難しいだろう。それでもその「つっかえ」るがゆえに見出せる言葉の潜在力を見出すようにはしたい。