浮遊する言語:「母国語」と「外国語」に境界線は存在するのか

もし、「日本人であること」がこの国・社会で通用する規範や共通認識を「空気を読む」ことで(非言語的に)理解できる人たちのことだとしたら、僕は「日本人」じゃない、というかなるためのハードルが未だに高すぎる。韓国で生まれてすぐに日本に住み始めてから、もう25年ほど経ったが。

その上、僕が「話す」日本語は、その立場性が極めて不安定なものである。もし僕自身が日本語を流暢に使えてなかったらただのお隣の「外人さん」のままだっただろう。却ってその使い方が流暢すぎたら、今度はまた「日本人すぎる」ことで、自分の意図していることや考えてることがちゃんと相手に伝わらないことが多くなる。

要するに、僕はその間に来る「ちょうどいい(ふつうの)」日本語を話せない。仮に今でも「外人さん」のままだったら、僕の日本語は「雑すぎた」だろう。それとは対照的に、「日本人すぎる」と今度はそれが「細かすぎる」ものとなる。

そういうこともあって、僕自身の言語能力を測定することも、そしてどの言語が僕自身のアイデンティティーに一番大きな影響を与えているのか特定することも難しい。韓国語は半人前にも至らないレベルだから、あえて自分にとっての「母国語」はないことにしている。一応日本語がその代打役になることで、人間としての言語活動はできてるけど、やっぱそれも「母国語」と言う感覚にまで落とし込めない。

恰も「母国語」と「外国語」の立場が反転してるようでしきれてない、なんなら常に言語上の「反胃状態」をこれからも半永久的に経験し続けるだろう。もはや現在進行形で経験している、と言うよりかは、自身の言語活動を先行する時制の感覚まで完全麻痺しているような感じである。

一概して、ある特定の言語への帰属意識は、恰も自明的なものとして認識される傾向がある。「誰もが自身にとって話しやすい言語がある」というような考え方は、ナショナリズム的な意味を包含した母国語(mother language)を中心に動く世界観の副産物だ。それは、元来個人の生い立ちに根ざした第一言語(first language)とは異質なものなのである。

だが、第一言語という考え方自体にも訝しい点は見受けられる。そもそも、多言語的な環境で育った個人にとって、その用いる言語を数字的に序列化すること自体、果たして現実的な認識なのだろうか。何なら、私たちは「母国語」と「第一言語」を同質化する言説にあやかることで、「外国語」を「第一言語」とする人々が存在していることを看過しているのではないだろうか。

さらに言えば、いくら多文化共生社会を実現化すると言っても、このナショナリズムに根ざした個人と言語の相関性の認識が支配的である限り、それはただの上辺の取り組み終わってしまうだろう。特定の社会集団のために構築された国語(national language)は、その中にいる人であれば誰しもが「普遍的に」、「話しやすい言葉」としているという無垢な見方は、言語そのものを物質的に、あるいは固形的なものとして捉えすぎている。その本質は、極めて有機的で、かつ流動的である。そのように、言語が「浮遊する」可能性を淘汰した多言語主義は、単に従来のナショナリズムと迎合する顛末に陥るのである。