la folie à deux:「おかしさ」の境界線について

la folieは、狂気/愚かさともされるが、むしろ僕としてはその間にある襞(「/」)への関心が高まっている。

真面目に考えるならば、近代以降の狂気概念の後景に滑稽さや愚かさといったものを求められる。la folie というフランス語は、そのような両義性を含んだ言葉である。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』は、知的な怠慢である「愚かさ」と、精神の乱れとしての「狂気」の間のスレスレを行き来する本だと個人的に思う。

それはさておき。今日の人間関係や日常会話でla folie = 愚かであることは戦略的に頻繁に使われる一方、la folie =狂っていることは、他者をはねのけて忌避するための正統性として用いられることが多い。今日の現代人は、知らずのうちにla folie が「狂ったもの」なのか、あるいは「愚かなもの」なのか、というニュアンスの違いを気にしていると考えられる。

例えば、「私は馬鹿なので、、、」と相手に遜る際には、「愚かであること」としてのla folieを援用する。「私は気狂いなので、、、」という謙り方は、基本的にあり得ないとされる社会を生きている。おそらく、「無知で浅学であること」をもって、相手との会話における知的負担を軽くしたいという思惑があるのかもしれない(いずれにしても、する必要はないが)。

中世西洋社会では、娯楽の対象として、つまり見世物になるものとしてla folie が考えられていたが、それが理性の主権性を謳う近代科学・啓蒙思想の台頭を契機に忌避されるもの、隠蔽されるべきものへと変わった。

la folieに対する社会的・文化的意識の変容は、それを聖性に準じて捉えていた時代がどんどん世俗化していた今日までの西洋社会の歴史的な変容と共鳴しているようにも思う。ヒューマニストの時代背景からしても、キリスト教神学への理解も欠かせないところか。

一方では道化的な娯楽の対象の「愚かさ」と(主に)自分自身を同一化させる。他方では特定の個人を健常な社会から締め出すための根拠としての「狂気」を適材適所に用いる。そのような両義的な区分は、少なくとも西洋では中世時代の社会意識の残骸と、近現代以降の理性を優位性に置いた意識が溶け合わさった歴史的蓄積の産物である。

そのような歴史を継承している以上、現代における「おかしさ」la folie の感性の特徴は、笑われてもいいや、という場合は「愚かなもの」、こいつはやばいと判断する際には「狂ったもの」として私たちが言語行為を遂行するための戦術である点に求められないだろうか。

参考文献

Foucault, M. (1976). Histoire de la folie à l'âge classique. Gallimard.

Grassi, E., & Lorch, M. D. P. (1986). Folly and insanity in Renaissance literature.

Willeford, W. (1969). The fool and his sceptre: A study in clowns and jesters and their audience.