ソーシャルメディア:即席化した他者との交わりの場

You have a self-destructive destiny when you're inflicted
And you'll be one of God's children that fell from the top
There's no diversity because we're burnin' in the melting pot

Immortal Technique - 'Dance with the Devil'

 コミュニケーションは加速化している。それは、オンラインの世界が日常化したことの恩恵なのだろうか。それとも、現代社会にあらゆる区画化を推し進める「分断」の根源なのだろうか。

 今の時点で、これに対する解、およびそれに通じるような示唆を提示しようとは思わない。少なくとも、加速化したコミュニケーションが、自分と他人との距離感を直接的なものにしたことで、他者を知ること、そしてその存在を無境界的に感じられるようにはなったとは言える。

 しかし、そのような無礼講さながらのコミュニケーションは、そのような他人を憎悪や中傷を浴びせることを最も容易くできるようにもした。他人は「ヒト」ではなく、ただの「記号」である。自分以外の「人間」は存在しない。多かれ少なかれ、そんな独我的な世界構造を生きるのが現代的な主体の姿と言えよう。

 また、その主体の内面は皮肉にも、急速な進化と変容を遂げた科学技術が操るカラクリ人形のようなものである。我々個人は、自分にとっての「小さな物語」を証言しているようでも、その基底となっているのは、社会が腹話術的に語りかけている「大きな物語」である。

 実に物騒な世の中だ。そうなってくると、顔も知っていてそれなりの信頼も誼もあれば、話したいことは肉筆で書いた手紙のやりとりの方がよっぽど健康的じゃないか、と思い始めた。コミュニケーションが加速化した現代社会だからこそ、ペンパル的な存在は「今どき」らしいと思った。

 オフラインの会話や交わりが産んでいた文化や社会を同時代的に生きていたわけではない(年代的に無理だ)。とはいえ、生きたこともない時代への「懐古厨」になりやすくなったのは、即席的なコミュニケーションに疲弊したからなのだろうか。