孤独を叫ぶ:Daveのリリックに寄せて

”You can trust me, all the shit that you been feelin', you're feelin' with me / We all took the wrong turns in different streets / We all cry the same tears on different cheeks”

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イギリスという土地で、ナイジェリアからの移民として様々な社会の不正義を見てきた若い詩人・リリシスト、Daveの言葉。ここで引用した歌詞は、父親が母国に強制送還されたことが背景にある出だしの曲("We're All Alone")から引っ張ってきた。

過去に何度か書いたことではあるが、改めて僕自身ともその背景から共感できるものが多い。振り返れば、僕は移民の家庭でも、経済的には比較的恵まれている方である。しかし、その家庭環境としてはとても望ましいものではなかった。アルコールに入り浸る父親、重度の自閉症を患った2個下の弟、父親との不和と喧嘩、子供の世話で精神を病んでしまった母親。

家族構成が「健常者(的)」でかつ「障がい者(的)」である以上、このような〈あいだ〉に自分が置かれるのが常だった。僕自身も、幼稚園に入ってからは周囲の子どもたちから「違う奴」扱いをされていく中で、この社会における包摂と排除のディレンマに挟まれていた。そのような間(はざま)は、僕自身の生活世界を基底するものであった。家族では「正常」と「病理」。外にでれば、「ウチ」と「ヨソ」。どちらにおいても、僕は一つの立場を取れるような状況ではなかった。

改めて、Daveの綴るリリックは、そのようなどこにも属せないような僕の心に寄り添い、熱い心でその痛みを汲み取ってくれるかのようである。権力が抑圧する市民の生。全体の公益性を謳いながらも、個々がエゴイスティックな欲望を追い求めるための口実にしか捉えない社会のあり方。今まであたかも「ゴミクズ」のように思えた自分の人生にも、光は差す。改めてそのような希望を与えてくれるような魂を持ったこのアーティストに、僕からも寄り添っていきたい。

想念が狂気を創る

「理想の社会」のあり方を語る上で、「ふつう」であることの「正しさ」を無批判に強固なものにするばかりではないか。

端的に言えば、「狂気」を語らずに「理性(的なもの一般)」について何を語れるんだ?と思うところだ。前者を見てみぬふりをする体裁で、哲学的見地から政治や社会、文化や芸術を見るにしても、啓蒙思想の二番煎じにしかならない。

現代の虚構性は、進歩主義的な歴史観を盲目的に信奉して、「私たち」の価値観は、近代以前の先人たちと全く違うと隔絶するところにあると常々思う。必ずしもラトゥールを意識しているわけではないが、«Nous n'avons jamais été modernes»を今一度命題として再考する必要があるだろう。

つまり、【「近代」/「現代」】というより、むしろ【「近代」・「現代」】という一つのまとまった括りの中を、果たして「私たち」は生きている、あるいは生きてきたと断言できるのかについては、懐疑的に考えたくなるところです。だからこそ、想念、擬制としての「今・ここ」ないが。

この【「近代」・「現代」】の中を生きるとされている私たちの複雑な動向は、健康とその規範的な姿をめぐる認識の中に著しく表れていると考える。今日、「メンタルヘルス」への啓発をこれだけ進めながら、未だに偏見が根強い現代だからこそ、「ヒステリア」とは結局何だったのか、と再度問い直す必要があるのではないか。

クレペリン以降の精神病理の分類学、戦後の反精神医学の流れを吟味し、評価することも大事だが、その臨床知の誕生期はどのような世相だったのか、そしてその時期の病理的なものに対する社会的意識の形象はより深く探究されてもよいはずだ。

まず、前提として主体の想像が入らない「眼差し」は、成立し得ない。それは「狂気」、「異常者」に対してもそうである。あらゆるバイアス、ステレオタイプを考えるとなると、私たちは意図せずとも「眼で見る」世界に埋没していく。

しかし、そういった傾向は避けられないにしても、視覚に重きを置いた西洋的価値観、とりわけ客観性の話になると、自己欺瞞も念頭に置いて考える必要はあるだろう。これに関して、精神医学において、用いられてきた患者写真が物語ることは多い。

今となっては、眼差しの写実性に対する懐疑主義的な姿勢は、ごく普通とはなった。とはいえ、専門知の形成において〈中心〉を占めているのは西洋のままなので、それに由来するような視覚中心主義もまた根強いように思える。ヒステリアの表象も例外ではないだろう。

長くなったが、以上が最近の探究と関心のテーマだ。「精神疾患の哲学」と言っていた頃は、自分でもそのあり方がいまいちわかってなくて、ヤケクソになっていたときがあった。それでも、しぶとくコツコツと文献を読み進めたら、より具体化されて、モチベーションも取り返せるようになった。ありきたりだが、研究で根性も大事だと痛感した。

年の瀬

今年一年ももうすぐ終わろうとしていますが、改めてちゃんと振り返ってみたいと思います。

まず、研究生活から見たときには、非常に多くの知見と創発の機会に恵まれた年になったと思います。学内誌での研究ノート掲載、学会発表をはじめ、公に自分が研究した成果を発表する経験を作れたのは、よかったことだと思います。

一方で、私生活としては、精神の平衡状態を保ちつつも、やはり暗澹とした感情や記憶に呑み込まれるようなサイクルから抜け出せていないままだとも感じさせられました。この点については、長くなるであろう研究生活に響かないようにしたいと思いますが、それについては焦らずにやっていければと思います。

改めて今年度も、ありがとうございました。来年もまた、引き続きよろしくお願い申し上げます。

いつか書きたい論考、「祭りと「狂気」」

博士進んだ時に、「祭り」の観点から見た精神病理について論文書く予定です。友人の推薦をきっかけに、ルネサンス期の人文主義者であるフランソワ・ラブレー、および彼の作品を翻訳した渡辺一夫を読んだことが主要な決め手となりました。ヒューマニズムの精神から見たときに、現代の精神治療のあり方は人道的と言えるのだろうか。そんなことを傍らで探求していきます。

まだまだ先ですが、とてに楽しみな研究のサブプロジェクトです。「祭り」と「狂気」は、僕の今日にいたるまでの関心と思惟の遍歴を形容する最善の鍵言葉だとも思います。それこそ余暇の時間に書き続けていこうと思っています。形になったら、どこかしらの媒体紙に寄稿したいと思っています。

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使用予定の文献:

- J-J. Wunenburger, «La fête, le jeu et le sacre»
- G・バタイユ『至高性―呪われた部分』
- 薗田 稔『祭りの現象学
- E. D. Martin, 'The Behavior of Crowds; A Psychological Study'
- E・デ・マルティーノ 『呪術的世界 歴史主義的民族学のために』
- 山口昌男著作集(「文化と狂気」、「歴史・祝祭・神話」など)
- 木村敏著作集(「躁鬱病と文化/ポスト・フェストゥム論」その他)
- ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』
- ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』
- ルシアン・フェーブル『ラブレーの宗教:16世紀における不信仰の問題』
- Charles Mackay, 'Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds'
- カルロ・ギンズブルグ『夜の合戦:16-17世紀の魔術と農耕信仰』
- J・ピーパー『余暇と祝祭: 文化の基礎』
- H.G. Baynes, 'Mythology of the Soul: A Research into the Unconscious from Schizophrenic Dreams and Drawings'

言葉の「つっかえ」とはマブダチ

時折脳裏をよぎる「やはり自分が流暢に話せる言語は一つもないのではないか」という、考え。自分が相手の発言を理解したとしても、僕が日本語で伝えた内容は半分も相手に届かない。日本語を母国語とする者同士のミスコミュニケーションとは、また違うといったら大袈裟だろうか。

自分が喋る・書く「言葉」が冗長でややこしいというような指摘は受けるので、それなりに意識して調整かけてきたはず。だけど、やはり(僕が認識する限り)日本人同士の会話より、僕との会話とで相手が受け答えに苦しんでいる様子を察してしまう。杞憂であるかもしれないにせよ、どれだけ長らく日本語を喋ってきたとはいえ、ネイティブな言語環境で会得したものでないことへの後ろめたさを感じてしまっている自分がいる。やはり、日本語を話すことは、僕にとって(本来なら期待されていないはずの)「日本人」という役を演じるための「セリフ」にしかならないような気もするのだ。

日本語での話し言葉と書き言葉、どちらも自分でもぎこちなさを感じ取れる(その他の「外国語」の水準もたかが知れたものだという意味にもなるかもしれない)。自分が意味を伝達するという目的性に拘泥し過ぎているからだとしておくが、やはりモヤモヤは残ったまま。

ただし、このどっちとも取れない板挟みな形をした「つっかえ」が、ありとあらゆる考えの可能性や方向を定めてきたことは、自分の生にとって確かなる事実である。少なくとも、かくして振り子のように揺らぐような「言葉」の使い方が抜けることは、よっぽどなことがない限りは極めて難しいだろう。それでもその「つっかえ」るがゆえに見出せる言葉の潜在力を見出すようにはしたい。

「 (=日本)」:有象無象の〈ふつう〉が象る空虚な「世界」

 もし愛国者が日本万歳と叫ぶならば、その人は最低限「日本(人)らしさ」の不可知性を強く意識した上で、かつその明確な輪郭の〈不在〉に母国の誇りがあることに強い信念を持つべきである。「日本最高!」は、「どっちつかずな我々」の中に至高性を認めることに等しいからだ。管見では、ナショナリズム的な熱狂は、ネイション的な根源が実際には確認できないが故の不安定さに突き動かされるものである。「日本!日本!」と騒ぎ立てる声は、実際には何も音を発していない「無音」の叫びなのである。

 その根底には、「ふつう」という曖昧模糊な認識と、それによって象られた世相を反映する日本の「社会」のあり方が、批判の余地を許さないほどに強固なことが考えられる。この集団において、「社会」という日本語が、「普通の考え」、「普通の感覚」から派生するあらゆる形の「ふつう」と同義的に用いられやすい。その「ふつう」とは、普遍性に典拠したものではない。むしろ、それはその場ごとの適材適所な認識のあり方、つまり刹那の「時」と「場」にすべてが吸収されていくような世界観のあり方なのである。

 仮に、社会=世間だったとしても、日本語で使われている分には、空虚な主語として一応機能している程度である。私見ではあるが、社会学の了解に基づくゲセルシャフト的な意味で「社会」という言葉が使われるのは滅多にないように思える。すなわち、この本来的な意味が〈不在〉した形での「社会像」が、この島国に住まう人たちの常に流転していく共通認識の基底にあることが、有機的な集合体としての「日本」に押し寄せる外圧等の緩衝材になったと思う。その政治的な帰結に関しては、常に私は否定的なのだが。

 ネイション、「国民国家」および社会/共同体の概念的区別の核に当たるのはまさにそれ自身が〈不在〉していることにあると考える。それぞれが、空虚なものから〈真理〉による言説的空間が象られてきた歴史=物語 l’historie を語るための仮構的なテーゼなのではないか。詰まるところ、〈不在〉、あるいは集合的な姿をしたありとあらゆる空虚なモザイクから社会的な「生」、または「死」を付与されている私たちなのだ。

もう修論か、

 ここ最近ですが、やっと修論の文献講読も全体の半ばまでいたり、もうすぐ執筆に差し掛かる段階まで来ました。テーマは、フーコーの思想から見た「理性の構成」となります。写真はその概要のダイアグラムというべきでしょうか。

 

 

 いずれにしても、ぐずぐずしていられない時節になりました。もうすぐ修士二年目も中盤に差し掛かる頃。それと同時に、もうすぐ年末年始です。手短に、そして一足早くこの一年を振り返ると、今年は今まで以上に時間の経過が早く感じられました。研究ノートの発表、学会での発表は、私のアカデミア生活の門出を迎える記念的な出来事でした。それに加えて、人との巡り合わせにも多く恵まれたのもあって、非常に充実していたと思います。

 来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。一回り早めのメリクリ、そして良いお年を。