建前と本音

昔話になること。

たとえ現実的ではないとはわかっていても、せめて「リベラル」な環境にいるならば、それにコミットすることに相応するだけの知的感覚と、知的な寛容さを僕の友人たちには持っていてほしかった。

条件反射的に、バズワードに反応したり、祭り騒ぎのためのテーマとして「リベラル」を自認している人が多くて、悲しかった。だから、というわけではないが、大学の同期には親近感を持てないことが多い。向こうも然りな状況ではある。単に、僕が期待しすぎた側面だってあるのだが。

生活が一番なのはいうまでもない。ただ、にしても、自分のアピール力を上げるために掲げる差別反対や、見栄えを良くするための平和主義を謳う彼らの姿を見るたびに、自分という人間がバカバカしくなってきた。自分が考えていることは、まともに扱ってもくれないんだ。これも、「世間はそうだっていうの」「建前と本音を使い分けるのが大人」という規範の世界では常識だ。僕が、夢を見過ぎていたのかもしれない。

今更ながら、国際教養学部、そしてその中の人たちから学んだことはかなり多かったと感じる。