「イマジネール」としての理性

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単なる虚構を生み出す力でも、想像力でもない。むしろ、人間社会、および人間の思弁的諸相を紡ぎ続ける潜在的な生産力がイマジネールになるか。書影にある本の内容の主題である「イマジネール」を端的に述べるなら、そのように解釈ができるだろう。

ここで話は逸れるが、本来やりたかった研究テーマは、(中期)フーコー以降の精神医学史をエピステモロジー的な側面から検証することだった。厳密には、「狂気の表象」を系譜学的に精査して、その非合理性を実証することを志していた。

しかし、このような「客観性の政治学」に基づいた科学的理性批判の先駆者である金森修氏は既に夭逝してしまっている。そんな今、日本の学術界において、そのような科学認識論を探求する人は、瑣末な数にとどまる程度である。

歪ながらも、こんなことをこの「イマジネール」を読みながら思い出すのである。科学認識論の色合いも醸し出されていたので、つい懐古的な感想が出てしまった。実際、この本自体も、科学的な理性の多様なあり方を反映した構成になっている。

認識論は、いまや言語哲学の領域内で語られてしまうだけに留まってしまう。しかし、ここで述べている認識論とは、合理性の人類学を指し示すものである。

この論題は、博士課程でやる所存である。それまでに、科学認識論を探求する意義を深め、今もなお語られるべき理由とはなにかを明示するための準備は終わらせたいと思う。