学習メモ:欲望論とそこからみる現代の消費社会

 西洋、キリスト教文化圏において19世紀末までは貞操的な美徳が支配的であった。それが、資本主義の成熟と大衆化の過程を経ることで、タテマエ的な機能に留まるようになった。それは、万人の欲望を駆り立てる宣伝やスローガンの素材として積極的に使用され、その表向きのメッセージを破ることの快楽を強めることもする。

 かつては、戒めや掟を破ることは、心身ともに苦痛をもたらすばかりだった。たとえ聖職者自身は腐敗していても、その信者には禁欲主義が課せられているような社会。それでも聖書の教義がその社会の心臓となっていたような頃の西洋社会である。それが今日では、たとえ苦痛を伴う結果になるとしても、それを上回るような快楽を味わえる行為と出来事で社会が満ち溢れるようになった。

 資本主義の発達に伴い、神の恩寵を享受する時代から、欲望すること自体を享受する時代へと次第に移り変わった。同時に、その贈り主もかつては「神」であったものが、今やそれは社会である。そして、社会は顔のない漠然とした空虚でありながら、自己と他者の境目をかく乱してくる。

 また今日の社会を秩序の中の自然状態とみるならば、その中の均衡は万人が万人の欲望を模倣することによって保たれるであろう。また、人々の規範意識から美的感覚にまで及ぶありとあらゆる「ふつう」は、それを民主的と判断する各自の模倣への意志の総体でもある。

 上のような論点を検証する上で。ベンサム&ミルの功利主義、それを批判的に応答するタルドの論点を整理し、タルドによる欲望の理解の特異性に着目することに意味はあると思う。またそれは、彼の模倣論の仕組みを理解するためのルートになるのだが、それ以上に今日の消費社会における享楽のシミュラークル化、その記号的反復を考えるためにも必要な道具にもなると考える。

結局、博士進学をまた考えることに。

仕事で委託されることがない限り、博進は考えないつもりでした。結局、行くことになりそうですが...。

 

ひとまず、博士課程後期への進学をもう一回考えるフェーズになりました。 その間に、色々心境が変わっていたので、かなり後ろめたさはあります。ですが、仕事としても研究を依頼されることがあった以上は、その責務を全うする次第です。

 

自分で探すテーマとは別個に、お仕事のテーマをもらえると、その信頼に応えたいというモチベーションにもなります。後者への詳しい言及は避けますが、前者の基本軸は功利主義思想とタルド社会学に収まっていくかと思います。

 

理論社会学、経済思想が主なテーマの領域となっていくかと思います。学びなおすこと、新しく学ぶことが多いのですが、安全第一・健康第一に邁進してまいります。

小さな自分、大きな傷とその長いトレース

小学校のとき。僕のその時の母校は、地元ではどの人も銘打つ荒れ具合だった。そんな環境での生活に耐えらない。そこから抜け出したい。そのために勉学で成功を収めたい(さもなければずっとおちこぼれ)。そういった衝動が僕の中で強く働き続けてきた。けど、その反動からなのか、大人になったころには異常な完璧主義者になって、何でもオールオアナッシングで決めつけてしまうようになっていた。

自分自身を嫌でも脅迫しないと、という状態が長引いて成人した後は燃え尽き症候群のような感じに見舞われたとも思う。いじめや嫌がらせ、差別のオンパレードな環境から離れたいという気持ち自体は正しかったと思うけど、その後遺症のようなもので、今でも追い詰められたような感覚に見舞われたりする。どこまで因果関係が成立してるんだか、よくわかっていないけど。

そんな時の記憶を微塵たりとも美化したくないのが正直な気持ちだが、あえて何か付言するならば、小学校で見てきたこと、経験してきたことが、今の自分の社会学的・人類学的な関心の基礎となったといえるだろう。つまり多感な時期に負った大きな傷が、集団の攻撃性、群集心理、そして社会的排除による暴力の構図をはじめとしたテーマに対する僕の理解度と視野の広さの母胎となっている。

だけど、それでもあの時の傷の痕跡に、今も昔と変わらないぐらいに苛まれていることに変わりはない。「From rags to riches」という言説をもじるかのように、傷つけられたことから立ち直るようなサクセス・ストーリーの筋を立てたものがちなのだろうか。多分そうなのだろうけど。なんだかんだで、最終的にはそういった言説が形象する『すごい「わたし像」』をいやおうなしに作らないとやっていけない社会の在り方自体が病理的だという結論に僕は落ち着く。

Changes in the prospect of my research plan

After a decent time period of learning philosophy (it’s a big fat subject indeed I guarantee), I realized that, even as an academic topic, I’m more attracted to pursuing scoiological inquiries than sticking to philosophical musings for long.

Not to dismiss philosophy at all. The philosophical research is conducted by scrutinizing a certain text written by a philosopher at any point of time/era, interpreting it over and over again, and hence rejuvenating the value of the text after all.

However, I ended up holding on to a view that philosophy is one of toolkits to bridge the gap between ideational and practical dimensions of hunamnity. Plus, the textual understandings as a result of philosophical training are prone to be limited because it’s barely immune to an ideological influence of the author(s).

Regarding my penchant for sociological theories, I desire to trace the genealogy of human beings as homo economicus (or the economic man) from the viewpoint of the classical utilitarianism and its empiricist backbone, and its critical responses from the French sociologist, Gabriel Tarde.

Overall, this will be pursued as I aspire to apply to the PhD program, as an interdisciplinary research between the French sociology and the intellectual history of economics in the English tradition, hoping that this will better explain how we got to where we’re at on the global scale (the neoliberal economy/policies, consumerism, etc.).

I’m still clueless as to how things will roll out in the end, but hopefully this is worth an attempt.

もし僕が親になったら

 

5歳ごろの僕



28歳になったばかりだが、もうこの時期だと結婚してもおかしくない頃合いになる。

僕自身は、今のところ結婚する道は考えていない。子供のころの家庭でのトラウマが今も強いからだ。

僕が子供の時には、親と無邪気に遊べたことがなかった。いつも激しい喧嘩を目の当たりにするばかりで、自分は部屋の影に隠れて泣くことしかできなかった。

僕が大きくなっていく時には、学校で毎日いじめられても、親に話すことができなかった。口をつぐんで、黙ってこの状況を甘受することしかできなかった。

今も、そのときの傷が残ったまま。独り身のままのほうが精神的に安定するのではないか。率直なところ、そんな理由で今も相変わらず、そういった人生の可能性から意図的に距離を置いている。だけど、人生を生きている限り、どんなトリックをかけられるのかは自分でもわからない。

そんな僕にもし子供ができたら、その子とじゃれあいっこして、自分も子供の時に戻って遊んであげることができるのだろうか。

そんな僕にもし子供ができたら、その子が大きくなっていく過程で抱えていく苦悩や痛みに寄り添える存在になれるのだろうか。

なによりも、そんな僕にもし子供ができたら、その子にとっての幸せと喜びを分かち合える存在になれるだろうか。

こんなことを、今の自分が考えてもしょうがない。というよりかは、まだためらいや恐怖、親になったとて子供を不幸にしてしまうのではないか、と世代を隔てたトラウマを繰り返すのではないか、と怖気てしまっている。結局何のオチのない文章をまた書いてしまったが、そのような気持ちを認めるものは残しておきたかった。

なんのために哲学、および学問を修めるのか。

なんのために哲学、および学問を修めるのか。

戯言を言わせてほしいが、自分のコミュニティーが目指すべき場所に向かっていくための地図、自分の信念が社会の「リアル」とどれだけぶつかっても諦めないでいるための燃料として僕は哲学「も」あると考えている。

哲学、より一般に言って学問とその専門知識は、誰かを言葉でねじ伏せる武器のマニュアルでもなければ、バアルの預言者のように偶像に向かって唱える経文でもない。あるいは、パリサイ人のような哲学者を僕は目指したいと思えるのか。僕は、そう思わない。

実際、哲学に限って言えばそれが詭弁のネタのような見方をされてもおかしくないし、あるいはそれ自体が宗教の一派のように見られてもおかしくないと思う。それでも個人の私益を膨らます小道具としてではなく、少なくとも個人と社会の乖離を埋めるようなセメントとして、改めて僕は哲学の価値を見出したい。

la folie à deux:「おかしさ」の境界線について

la folieは、狂気/愚かさともされるが、むしろ僕としてはその間にある襞(「/」)への関心が高まっている。

真面目に考えるならば、近代以降の狂気概念の後景に滑稽さや愚かさといったものを求められる。la folie というフランス語は、そのような両義性を含んだ言葉である。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』は、知的な怠慢である「愚かさ」と、精神の乱れとしての「狂気」の間のスレスレを行き来する本だと個人的に思う。

それはさておき。今日の人間関係や日常会話でla folie = 愚かであることは戦略的に頻繁に使われる一方、la folie =狂っていることは、他者をはねのけて忌避するための正統性として用いられることが多い。今日の現代人は、知らずのうちにla folie が「狂ったもの」なのか、あるいは「愚かなもの」なのか、というニュアンスの違いを気にしていると考えられる。

例えば、「私は馬鹿なので、、、」と相手に遜る際には、「愚かであること」としてのla folieを援用する。「私は気狂いなので、、、」という謙り方は、基本的にあり得ないとされる社会を生きている。おそらく、「無知で浅学であること」をもって、相手との会話における知的負担を軽くしたいという思惑があるのかもしれない(いずれにしても、する必要はないが)。

中世西洋社会では、娯楽の対象として、つまり見世物になるものとしてla folie が考えられていたが、それが理性の主権性を謳う近代科学・啓蒙思想の台頭を契機に忌避されるもの、隠蔽されるべきものへと変わった。

la folieに対する社会的・文化的意識の変容は、それを聖性に準じて捉えていた時代がどんどん世俗化していた今日までの西洋社会の歴史的な変容と共鳴しているようにも思う。ヒューマニストの時代背景からしても、キリスト教神学への理解も欠かせないところか。

一方では道化的な娯楽の対象の「愚かさ」と(主に)自分自身を同一化させる。他方では特定の個人を健常な社会から締め出すための根拠としての「狂気」を適材適所に用いる。そのような両義的な区分は、少なくとも西洋では中世時代の社会意識の残骸と、近現代以降の理性を優位性に置いた意識が溶け合わさった歴史的蓄積の産物である。

そのような歴史を継承している以上、現代における「おかしさ」la folie の感性の特徴は、笑われてもいいや、という場合は「愚かなもの」、こいつはやばいと判断する際には「狂ったもの」として私たちが言語行為を遂行するための戦術である点に求められないだろうか。

参考文献

Foucault, M. (1976). Histoire de la folie à l'âge classique. Gallimard.

Grassi, E., & Lorch, M. D. P. (1986). Folly and insanity in Renaissance literature.

Willeford, W. (1969). The fool and his sceptre: A study in clowns and jesters and their audience.