贅沢な悩みなのだろうか。博士にはもう行かないと両親には伝えてからだいぶ経った今も、二人から「気が向いたら行っていいんだよ」という言葉をかけられる。何度もさりげなく言われるのも、どこかしつこく感じてしまうのが、正直なところだ。というのも、才能がないところに、才能があると言われ続けるのも、地味にしんどいのだから。
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こんなことを書いてもしょうがないのだが、何度もこういう場面に出くわすと、いやでも考えてしまう。そして今日もさりげなく言われた。「社会貢献する上で、博士取っておいた方が何かしらの信用にもなると思うな」、「どうせ勉強するならば、...」など。何が正解なのか全くわからない。30歳を迎えた後の人生プランに大きく関わることだ。学問との向き合い方とスタンスが定めづらい。
過度に、僕自身がその研究能力を矮小化させてしまっているだけなのだろうか。あるいは、そもそもの適性に見合った判断に対して実感を持てていないだけなのだろうか。そんなモヤモヤを抱えながら、いつの間にか聖夜を迎えました。メリークリスマス。
改めて進路について
結論から申し上げますと、アカデミアでのキャリアを断念することにしました。論文執筆等、研究業から足を洗おうと思います。
いろいろ理由はありますが、アカデミアで正当に評価されるような論文を書くことが苦になったこと、そして研究職に僕の適性がないと判断したからです。 博士号への進学の予定については、白紙に戻したいと思います。
研究者としての僕に期待してくださった方々の期待を裏切る形となってしまいました。これまでの間、僕の研究活動を見守ってくださっていた方に謝意を申し上げます。 今後とも、今まで「研究」という名前を冠してやっていたことは、余暇の思索、読書として継続したいと思います。
野良犬のような自分
まるで僕という人間が、野良犬のように思うときがある。幼少期から受けてきた嫌がらせ、いじめや差別の経験がきっかけで、他人に対する警戒心が自ずと強まるばかりだった。また、サバイバル本能ともいえるような心理状態に長らく陥っていたのもあり、いつの間にか神経は底をつくほどにすり減っていた。
僕がこの社会で生き残るためには、日本人以上に日本人としての要素を得ていかないといけないという意識が強かった。否、強すぎた。それと象徴的に比例するかのように、高校、大学と傍から見れば高学歴な集団に入ることはできた。しかし、僕のような部外者は、その位置に立って、やっと日本の社会の「ふつうの人」として見てもらえると考えてきた。そうでもしないと、周りと同じスタート地点にすら立てないと思い込んできた。 すなわち、僕にとって日本人らしさを会得することはこの社会を生きるためのジェントリフィケーションの仕方であった。
しかし、この過程を踏まなければ、この社会の普通の人々の輪の中に入ることは極めて難しかった。この仮装した自分と、すっぴんの自分との間のきしみ合いの中を生きること。それが、僕がこの社会のよそ者として生きる基本となるルールだった。 そうしている間に、完璧主義すぎる自分も出来上がってしまったのかもしれない。物心がつく前からすでに、「ふつうの人」の輪から弾かれている。そこからくる様々な強迫観念に、僕は突き動かされてきた。だが、それに身を委ねすぎた挙句、身も心も壊してしまった。 また、同時に人の心の温かさに素直になれていない自分もまた出来上がってしまった。そのような温情を受け取る自分が卑怯だと思っていたし、その思いやりに応じた「より良い自分」になっていなければ見捨てられるだろう、といつも悲観的になっていた。
やたらと生存戦略を自分なりに細かく練っていたが、そんな僕は傷まみれの捨て犬のようなであった。ことに対して無自覚だった。そこから、自分のことは自分で背負って全うさせるという考えを当たり前のように抱いてきたが、それが逆火して今までの衝動的・破滅的な言動につながってしまった。そんな不健康な考え方を少しでも克服しながら、人の温情を素直に受け取るようにしたい。
メモ:作品としての自己と外国人
私たちは、しばしば私たち自身と外的世界との間の内的距離が象る自己を虚ろだと考える。むしろ、私という人間が、全体と同一化した個を物語る「私」との間に作品としてできる場合において「本当の自分」があると考える。
また、そのような本当の自分が確かなものだとするために、より大きなもの(群れ、コミュニティー, etc.)とのつながりを要求する。しかし、たとえどれほど多くの労力を割いても、最後に出来るものは本当らしい自分、確からしい私である。その基底が内在的なものであるがゆえに、「私」は常に変容する。
自分という人間と、それを囲う世界との間に内在する距離がある。個としての人間は、この隔絶から生まれる。全体として広がるその外部と人間が同化するとしても、それは想像力の作用によるものであり、それによって私たちは国民、人種や民族といった虚構の製作者となる。
異邦人という存在もまた、そのような私たちの作品の一つだ。しかし、当の作者である私たちは、異邦人 l'étrangerという語に含む、疎外された étrangéという言葉の含みに対して驚くほどに無頓着である。自国民と切り離された上で対をなす存在を「外国人」と名付けるものの、作者の私たちは、私たち自身もまたこの作品そのものであることに気が付いていない。
「国籍なんて関係ない」:多様性のディストピア
「国籍なんて関係ない」。そんな美辞麗句に安易に乗っかっても、それで救われる世界ではない。大層偉そうなことを言う無礼を、予めご容赦願いたい。
日本人なら日本人として、移民なら移民として、ミックスルーツならミックスルーツとして。どのような立場でも、クリーンな建前で飾る自分の姿と、泥沼な本音で汚れた自分の姿の矛盾と真正面にぶつかれないならば、それ以上に臆病なことはない。
意図されているにせよ、そうでないにせよ、人は誰しもその出自と国籍・民族で相手を判断する。敢えて、僕が韓国系の移民として自分自身を強調するのは、どの道であれ僕もまたその存在価値を他人によって機械的に査定される対象だからだ。
仮に、僕が日本に帰化しても、いずれ必ず「こいつは朝鮮人だ」と日本人に暴かれる。通名を使ったとみなされれば、(かつての言葉を使うと)あたかも「不逞鮮人」として殊更はねのけられる存在となる。日本人というマジョリティーに同化したところで、僕はよそ者なのだ。幼少期から育ったとしても、僕はただの来賓客でいるべきだったのだ。
「国籍なんて関係ない」。僕も例外なく信じていた。しかし、この言葉で救われる人より、そのせいで路頭に迷う羊ばかりが増えてしまったように思える。そんなディストピアからは、さっさと引っ越すしかない。
「日本に移民は存在しない」:触れられないことについて敢えて語ること
近頃、外国からの移民の増加を懸念するような声が、日本で日に日に大きくなっている。これはオンラインのネット言説に留まる話ではない。実生活でも、とっさの会話で「物騒な外国人」に言及する日本人は多い。改めて自己紹介を兼ねると、この文章の筆者は、韓国系の移民の出自で、生まれて三か月の時に日本に来てから今日にいたるまで、長らくこの社会で生活してきた。
結論から言うと、そのような移民問題は擬似的なものでしかないと考える。なぜならば、日本社会の秩序を乱す社会的逸脱を犯すことと、内外の出自の話は互いに異なる側面の話であり、必ずしも因果関係を相補的に構成するものではないからである。それでもなお、年々増加する異邦からの他者の受容を考える上で、そこに何かしらの潜在的なリスクを多く孕むことを考慮する問題意識がなくしては、現地人(日本人)は移民の存在を認識することができない。
ナショナリズムの理論的な観点からみれば、日本の同質的な民族構成、および純血思想は、ここ一世紀の時間の中で作り上げられた虚構である。その根拠が、日本の創世神話に求められるとしても、純血な日本人像は集合的な想像の産物といっても過言ではない。
すると、日本の将来の担い手として、なにも両親とも日本人にもつ子供たちに限る必要性は絶対的ではない。この国に何かしらの縁で移り住み、物心つく前から育ってきた子供たちもそうだ。それでもなお、今の私たちは前者の意における日本人の政治・社会への参与の在り方しか考えず、またそれしか考えられないような議論の枠組みに、あらゆる世論を還元させようとする。
現地人としての日本人像は、日本語による単一言語的な環境で育ってきた人たちの間では、ごく自然なものとして共有されることが多い。そこに異国から来た存在を考える余地はない。そんな余裕があるならば、「県民性」による同じ血の下の多様性を調停すべきなのだから。
僕みたいに成長しても歪んでひねくれた2世、3世の子を多く産み出すような日本の将来であってほしくない。これからも、そのような信念を持ち続けるだろう。
時間を使うこと

時間を大切にする。くどい言い方をするならば、それは時間を有用に使うことを意味する。
生が限られているのは、その彼岸にある限りない「死」の世界があるからこそだと私は信じている。時間を使用するにあたって、我々は常にそれを有益に費やそうとする意志と、その余白を取っておこうとする欲求の間に挟まれている。
限られた時間を、いかに無駄なく使うのか。われわれは、それを常に意識する。しかしそのような有用性を踏まえて日常を送れるのも、余暇という時間の損得勘定とはゆかりのないような時間があってこそ成立するように思える。
今日における時間というものが、一人一人にとって投資財としての色合いをより強く帯びるにつれて、その価値もまた経済的な性格をより反映するようになった。とはいえ、時間は本来、そのような消費経済の通貨であること以上の意味を持っていると思います。